空梅雨、それとも中休みなのか。根性のない梅雨のせいで、当サイト大いに困惑中。




1999ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1261999

 アジフライにじゃぶとソースや麦の秋

                           辻 桃子

題は「麦の秋」で、夏。「秋」を穀物の熟成する時期ととらえることから、夏であっても「麦の秋」と言う。麦刈りの人の昼食だろうか。あるいは、労働とは無関係な人の、一面に実った麦を視野に入れながらの食事かもしれない。空腹の健康とたくましい麦の姿が、よく照応している。「さあ、食べるぞ」という気持ちが活写されていて、気持ちのよい句だ。ひところ話題になった「お茶漬けの友」のテレビCMの雰囲気に同じである。ソースをじゃぶとかけたら、後は一気呵成にかっこむだけ。健啖家は、見ているだけでも爽快だ。ところで、あのCMを見たドイツ人がイヤそうな顔をした。音を立てて物を食べることに抵抗があったわけだが、ビール天国のドイツのCMでは、咽喉を鳴らしてビールを飲むシーンなども皆無だという。日本だって、昔は蕎麦以外は音を立てないで食事をするのが礼儀だった。それが、いつしか安きに流れはじめている。で、もう一つの余談。私はアジフライにソースはかけない。醤油を使う。好みの問題だが、何かと言うと醤油を使う人が、我が世代には多い。子供の頃に、ソースが出回っていなかったせいだろう。(清水哲男)


June 1161999

 紫陽花や白よりいでし浅みどり

                           渡辺水巴

陽花(あじさい)は、別名を「七変化」とも言うように、複雑に色を変えていく。薄い緑色から白色、青色、そして紅紫色といった具合だ。句では「白よりいでし浅みどり」と変化過程にある紫陽花の一時期の色を詠んでいて、雑に読むと錯覚しやすいが、この「浅みどり」が薄い緑色ではないことがわかる。「白」の次は「青」でなければならないからだ。『広辞苑』を引くと「浅緑」には薄い緑色の意味の他に「薄い萌黄色」と出ている(「空色」とも)。この「萌黄色」がまた厄介で、黄緑色に近い色と受け取ると間違いになる。藍染めに源を持つ色彩に「浅黄色」があり、「薄い萌黄色」はこれに近い。つまり「薄い水色」だ。中世で「浅黄色」というと、薄い青色のことを指した。したがって、いまでは「浅黄色」と書かずに、青を強調して「浅葱色」と表記するのが一般的になっている。私たちが交通信号の「緑」を平気で「青」と言うように、日本人の色意識には、「緑」と「青」の截然とした区別はないのかもしれない。なんだかややこしいが、他にも日本の色の名前には面白いものがたくさんある(翻訳はなかなかに困難だ)。白秋の「城ケ島の雨」の英訳があって、外国人が歌っているのをレコードで聞いたことがある。「利休鼠の雨が降る」をどう訳していたのだったか。忘れてしまったのが残念だが、たしか「RAT」という言葉は入っていたように思う。『水巴句集』所収。(清水哲男)


June 1061999

 吊皮にごとりとうごく梅雨の街

                           横山白虹

なずけますね。「ごとりとうごく」のは、物理的にはむろん電車のほうだが、梅雨空の下の街は灰白色でひとまとめになっているように見えるので、街のほうが傾いで動いたように思える。雪景色の場合はもっと鮮明に、そのように感じられる。これが逆に晴天だと、街の無数の色彩がそれぞれに定着した個を主張してくるので、街ぜんたいが揺れるようには写らない。「だから、どうなんだ」と言われても困るけれど、俳句表現とは面白いもので、この「だから、どうなんだ」という反問を、実は句の支えにして成立しているようなところがある。ここで俳句の歴史を詳述する余裕はないが、乱暴に言っておけば、俳句は常に一つの「質問」の構造を先験的に持つ文学だ。これは言うまでもなく「連句」の流れから来ている。発句を一行の詩として屹立させようとした正岡子規らの奮闘努力の甲斐もなく(!?)、無意識的にもせよ、反問をあらかじめ予知した上での俳句作りは後を絶たない。「反問」と言うから穏やかではないのであって、一句の後に読者が勝手に七七を付けてくださいよ(読者の印象を個人的にふくらませてくださいよ)と、いまだに多くの俳句は呼びかけを発しつづけている。こんなに独特な表現様式を持つ文学は、他にないだろう。(清水哲男)




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