失業率最悪にも「苦しい時はお互いさま」の人情も無し。跋扈する資本主義の妖怪。




1999ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0261999

 万緑に黄に横に竹四つ目垣

                           上野 泰

覚的に面白い句。「黄に横に竹四つ目垣」の、それぞれの漢字をよく見てみると、ほとんどが縦横に垂直な線で構成されていて、なるほどいかにも「四つ目垣」である。さしたる発見もない句だけれど、なんとなく可笑しい。句の背後で、きっと作者もほくそ笑んでいることだろう。気取って読むと、モンドリアンの絵画にも通じる構成の妙ありとでも言いたくはなるが、ま、この読み方はいささか牽強付会に過ぎる。とりあえず、こういう俳句も「あり」ということだ。昨今はブロック塀の進出が著しく、四つ目垣も昔のようには見られなくなった。そもそも家庭の垣根という発想やオブジェが都会の産物であり、他の産物と同様に、垣根もまた都会の文法の変化とともに変わっていく。ちかごろの都会の自治体では、町に「緑を取り戻す」ために、ブロック塀から四つ目垣などに作り替える家には助成金を出すところも出てきた。しかし、こうした助成金は作り替えるときの費用の一部になるだけなのであって、その後の垣根の手入れなどについてまで面倒を見ようとはしていない。これでは、簡便なブロック塀に勝てるわけがない。「黄に横に竹四つ目垣」の景観を再現したいのならば、この他にも考えるべき点は山ほどある。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


June 0161999

 嘘ばかりつく男らとビール飲む

                           岡本 眸

ろいろな歳時記に載っている。ビールの句には、なかなかよい作品がないが、この句は傑作の部類に入るだろう。しかし、なぜか作者の自選句集からは削除されている。「男ら」とぼかしてはあっても、やはりさしさわりがあるためなのだろうか。作者とは無関係の「男ら」の一人としては、まあ「嘘ばかりつく」わけでもないけれど、女性が同席していると、ついつい格好をつけて大言壮語に近い発言はしたくなる。できもしないことを言ったり、過去を美化したりと、要するに女性に受けようと懸命になるわけだ。それを、こんなふうに見透かされていたのかと思うと、ギョッとする。うろたえる。だから、傑作なのだ。歳時記の編者はたいていが男なので、ギャフンとなって採り上げざるをえなかったのだろう。作者が考えている以上に、男はこうした句におびえてしまう。ただし、酒の席での男の欠点にはもう一つあって、嘘よりもこちらのほうが女性には困るのではあるまいか。すなわち、やたらと知識をひけらかし、何かというと女性に物を教えたがるという欠点。そんな奴に、いちいち感心したふりをして相槌を打つ女性もいけないが、調子に乗る男はもっと野暮である。たまに、私もそうなる。夕刻の「ちょっとビールでも」の季節にも、いやはや疲れる要因はいくらでもあるということか。(清水哲男)


May 3151999

 親切な心であればさつき散る

                           波多野爽波

っぱり、わからない。わからないけれど、しかし、なぜか心に残る句だ。俳句には、こういう作品がときたまある。心にひっかかる理由の一つは「親切な心」という詠み出しにあるのではないか。芭蕉以来三百有余年の俳句の歴史のなかで「親切」などという言葉で切り出した句は、他にないのではないか。しかも、何度読んでも、この「親切な心」の持ち主は不明である。でも、つまらない句とは思えない。なんだか、散る「さつき」に似合っている気がしてくるのだ。わからないと言えば、だいたいが「さつき(杜鵑花)」自体もよくわからない花なのであって、私には「さつき」と「つつじ」の違いは、いつまで経ってもこんがらがったままである。この句については、永田耕衣の文章がある。「軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレもない。融通無碍、イナそれさえもない日常茶飯の情動だろう」。うーむ、わかるようで、わからない。もとより俳句は、わからなければいけない文学ではないのであるが……。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)




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