今夜、東京ドームで巨人阪神戦を見る。が、ネット裏指定席が5900円とは高過ぎる。




1999ソスN5ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3051999

 こわれてもあてにしている扇風機

                           南部さやか

学校五年生の作品。扇風機が必要な真夏というよりも、これから必要になる初夏の句と読んだほうが面白い。たぶん、この扇風機は、昨年の夏の終わり頃にこわれてしまったのだ。すぐに修理に出しても、来年の夏までは使わないのだからということで、まだそのままにしてある。そのうちにと思っているうちに、早いものでだんだんと再び必要な季節が近づいてきた。家族の間では、もうそろそろ修理に出さないと間に合わないという思いはあるのだけれど、一方で、電源を入れて叩いたりすれば、またいつもの夏と同じように勢いよく回転しだすような気もしている。すなわち、なんとなく「あてにしている」のだ。作者は素直に、そんな家族の気持ちを代弁している。鋭くも可笑しい着眼だ。家電製品の故障については、しばしばこうした気持ちになる。その昔、鳴らなくなったラジオを叩いてみたら鳴りだしたという経験は、多くの方がお持ちだろう。ところが最近では、画面がフリーズするとパソコンを叩く人がいる。パソコンが家電製品になってきた証拠である。『第二十七回・全国学生俳句大会入賞作品集』(1997)所載。(清水哲男)


May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


May 2851999

 穀象に青き空など用はなし

                           成瀬櫻桃子

を干すと、ぞろぞろと出てきた。穀象(こくぞう)とは、よくも名づけたり。体長三ミリほどの小さな虫のくせに、巨大な象にあやかった命名がなされている。別名「米の虫」とも呼ばれるくらいで、こいつが米に取りついたら最後、象のような食欲を発揮して食い荒らしまくるのだから、たまらない。昔は米櫃によく発生し、米を研ぐときによほど注意しないと、そのまま炊き込んでしまうというようなことが起きた。オサゾウムシ科の甲虫である。そんな穀象だから、まったく青空なんて関係がない。用はない。といっても、句は穀象の気持ちを代弁しているわけではなく、作者みずからの心持ちを穀象のそれに擬しているのである。「ふん、どうせ俺は穀象さ」とみずからをおとしめることで、「青き空」やそれが象徴するものを、単純に馬鹿みたいに賛美する世の人々に背を向けている。青空がひろがると、ラジオのパーソナリティとしての私は、もう二十年間も「気持ちがいいですねえ」などとマイクに向けてしゃべってきた。常に、心のどこかでは、青空に単純には好感を抱けない人々の存在を気にしながらも……だ。まことに罪深い職業である。『風色』(1974)所収。(清水哲男)




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