岸田稚魚に「浅香光代来るからまつの芽吹くころ」の句。浅香さん、最近は毎日来る。




1999ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


May 2851999

 穀象に青き空など用はなし

                           成瀬櫻桃子

を干すと、ぞろぞろと出てきた。穀象(こくぞう)とは、よくも名づけたり。体長三ミリほどの小さな虫のくせに、巨大な象にあやかった命名がなされている。別名「米の虫」とも呼ばれるくらいで、こいつが米に取りついたら最後、象のような食欲を発揮して食い荒らしまくるのだから、たまらない。昔は米櫃によく発生し、米を研ぐときによほど注意しないと、そのまま炊き込んでしまうというようなことが起きた。オサゾウムシ科の甲虫である。そんな穀象だから、まったく青空なんて関係がない。用はない。といっても、句は穀象の気持ちを代弁しているわけではなく、作者みずからの心持ちを穀象のそれに擬しているのである。「ふん、どうせ俺は穀象さ」とみずからをおとしめることで、「青き空」やそれが象徴するものを、単純に馬鹿みたいに賛美する世の人々に背を向けている。青空がひろがると、ラジオのパーソナリティとしての私は、もう二十年間も「気持ちがいいですねえ」などとマイクに向けてしゃべってきた。常に、心のどこかでは、青空に単純には好感を抱けない人々の存在を気にしながらも……だ。まことに罪深い職業である。『風色』(1974)所収。(清水哲男)


May 2751999

 いとけなく植田となりてなびきをり

                           橋本多佳子

植えが終わって間もない田。植えられた早苗はまだか細くも薄緑色で、鏡のような水田を渡る五月の風に、いささか頼りなげになびいている。しばらくすると、これら「いとけなき」ものたちも成長して、見事な青田に変わっていくわけだ。さながら人間の赤ん坊を見ているような思いから、多佳子は「いとけなく」と詠んでおり、一見平凡な形容とも受け取れるが、生きとし生けるものへの愛情こまやかな優れた表現だと思う。青年期以降、私の周辺には水田がなく、田圃のなかで育った人間としては、寂しい思いをしてきた。たまさかの旅で、車窓から田圃が見えると、反射的にいつも目が行く。田圃で働く人の姿がちらと見えると、目に焼きつく。先日の遠野の旅では、実にひさしぶりに植田を間近に見ることができて、観光用の名所や建物などよりも、よほど目の保養になった。立ち止っては、写真に撮ることもした。こんな旅の者もいるのである。我が山陰の田舎でも、田植えが終わったころだ。終わると、大人たちは「泥落とし」と称し、集まって一杯やっていたことを思いだす。(清水哲男)




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