ガイドライン法は、まぎれもない戦争マニュアルだ。国民の無関心は、なぜなのか。




1999ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2551999

 心いま萍を見てゐるにあらず

                           清崎敏郎

という漢字を知らなくても、じいっと眺めているうちに、その実体が姿を現わしてくる。平らな水の上(水面)に草が浮いている。すなわち「うきくさ」だ。「苹」とも書く。漢和辞典によると、はじめは上の艸がなく、後に加えて字義を明確にした文字だそうだ。だから、音読みでは「へい」となる。こうやって覚えると二度と忘れないが、皮肉なことにたいていの人が読めないので、覚えがいはない。今は「浮草」と書くのが一般的だろう。句は、作者二十代の作。一読、老成した感覚を感じるが、よく読むと、若さゆえの抽象性が滲み出ている。池の畔にたたずみ、我が目はたしかに萍をとらえているけれど、心は遠く別の場所にある。自省か煩悶か、あるいは何事かについての思索なのか。ともあれ、いまの我が姿から他人が想像できるような場所に、俺の心は存在してはいないのだ。と、この決然とした物言いも、若さの生み出した表現と言えるだろう。作者は虚子の流れをくみ、花鳥諷詠に徹した人だが、その意味からすると異色の作である。さきごろ(1999年5月12日)鬼籍の人となられた。合掌。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)


May 2451999

 大阪も梅田の地下の冷しそば

                           有馬朗人

だ文部大臣ではなかった1991年の句。句集だけを開いても、とにかく国内外の旅の多い人だ。外国に取材した俳句も数多い。が、北欧だとかイスラエルだとかと私の未知の土地での作品は、そういうものかと思うだけで、よくはわからない。「神学者西瓜の種を吐きあひて」(イスラエル七句のうち)。そんななかで、掲句のような世界に出会うとホッとする。よくわかる。梅田近辺には大きなホテルがいくつかあるから、たぶん作者はそこに宿泊したのだ。公務での出張だろう。東京行きの新幹線を利用するには、梅田の駅(大阪駅)から新大阪駅まで電車に乗る必要がある。しかし、新幹線の発車時刻までには少々時間があるので、あらかじめ腹拵えをしておこうと、広い梅田の地下街のとある店で「冷しそば」を注文したというのである。「冷しそば」は大阪名物でも何でもなく、とりあえずすぐに出てくるものを、そそくさと食べるというだけのこと。「大阪も」と大きく振り出して、ありふれた「冷しそば」に行き着き、作者は半ば苦笑している。出張のあわただしい気分を、食べ物を通じてとらえてみせたところが面白い。『立志』(1998)所収。(清水哲男)


May 2351999

 わが夏帽どこまで転べども故郷

                           寺山修司

賞ならぬ感傷。中学から高校時代にかけて、偶然の契機から見知った才能を忘れられない二人は、ともに故人となった。一人は漫画の小野寺章太郎(後の石ノ森章太郎)であり、もう一人は俳句の寺山修司であった。小野寺章太郎は「漫画少年」「毎日中学生新聞」で、寺山修司は「螢雪時代」の投稿欄で作品と名前を知った。私も投稿していて、二人には、いつも負けていた。思い返してみると、小野寺も寺山も、才能は秀抜だったとしても、ともに寂しい少年であったような印象がある。田舎の子ゆえの寂しさが、だからこその都会的センスへの渇望が、作品を紡ぎだすバネになっていたのだと思う。戦後間もなくの(純白の)「夏帽」だなんて、映画のなかの誰かがかぶっていたかどうかくらいのもので、句作した当人も目撃したことはなかったろう。そのあたりの田舎者ならではの「憧れのいじらしさ」が、修司の句には散見される。そして、この「いじらしさ」は、我ら全国の投稿少年たちの心情にも共通していた。修司を評して「アンファン・テリブル」と言った人もいるけれど、そうだったろうか。田舎の子が、何事かをなさんと欲するならば、そんなポーズを取るしかなかったということでしかないだろう。私がこの句を好きなのは、そんなポーズが隠しようもなく露われていて、とても「いじらしい」からである。俳誌「麦」(1954年9月号)に初出。(清水哲男)




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