野茂復活。これって「復活」なのかね。クリスチャンが怒るぞ。復活の前に死ありき。




1999ソスN5ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1151999

 笋の皮の流るる薄暑かな

                           芥川龍之介

(たかんな)は筍(たけのこ)。「たかんな」なんて漢字がワープロに仕込まれているはずはないと思いつつ、試しに打ってみたら一発で出てきた。びっくりした。俳人以外の誰が、いまどき「たかんな」の漢字を必要とするのだろう。よほどの「筍」好きが作ったワープロ辞書なのだろうか。どうもワープロ・ソフト製作者の意図には不分明なところがある。……と書いて、アップして約9時間後、読んでくださった坂入啓子さんから「たかんな」の漢字が間違っているのではとの指摘があった。あわててよくよく見たら、たしかに大間違い。一発で出てきたのは、「笋」ならぬ「箏」という字だった。辞書の間違いであると同時に、気がつかなかった私の失策でした。ごめんなさい。ちなみに使用辞書はEDWORD6.0版。というわけで、以下が昨日と同じ本文となります。……句意は簡単明瞭。笋の皮が小川を流れていく様子が、ちょうど少し汗ばむような陽気にマッチしたというのである。筍は成長につれて皮を脱ぐが、それが流れてきたというのではなく、誰かが上流で食べるために剥がした皮が流れてきたと解すべきだろう。夏めいてきた気分が、見えない上流の人の食事の用意によって、鮮やかにとらえられている。昔の川は、文字通りの生活用水でもあったので、このような情感も流れてきたというわけだ。川を意識するということは、単に眼前のそれを意識することではなかった。見えない上流も下流も、自然に同時に意識したということで、この句は、読者にもそのような昔の生活者の目がないと、理解はできない。現代の川は、この意味では、もはや川ではありえないと言うこともできそうだ。『我鬼全句』所収。(清水哲男)


May 1051999

 愛鳥の週に最たる駝鳥立つ

                           百合山羽公

鳥週間は、五月十日より一週間。ああ、駝鳥も鳥だったんだ……と、ちょっと意表を突かれる句。もちろん駝鳥も鳥には違いないが、愛鳥週間というとき、飼われて生きている鳥は「愛」の対象からは除外されている。愛鳥の発想が、山林や自然保護に発しているからだ。そこで作者は、あえて「最たる」と強調して駝鳥を立たせている。高村光太郎の「駝鳥」の詩ほどの社会意識はないにしても、どこかで「愛鳥」の勝手を皮肉っている。駝鳥の超然とした姿を通して、理不尽なことよ、と言っている。また今日では、飼われていなくても、愛鳥の心には不都合な鳥もいる。カラスなどは、その「最たる」ものだろう。戦後に書かれた柴田宵曲の文章に、こんな件りがある。「かつて先輩から聞かされた話によると、以前は東京の空も、麗かな日和には鳶(とび)や鴉(からす)が非常に多く飛んだものだが、今は少しも見えない」(『新編・俳諧博物誌』岩波文庫)と。鳶はともかく、いまや鴉は我が物顔で東京の空を飛んでいる。とても「カラスといっしょに帰りましょ」という童謡の気分にはなれない。句の「駝鳥」を「カラス」に変えても、一向にかまわない「愛鳥週間」とはあいなってきた。(清水哲男)


May 0951999

 そら豆剥き終らば母に別れ告げむ

                           吉野義子

さしぶりに実家に戻っている娘が、老いた母のもとを去りがたく思っている。もう少し母と一緒にいたいと思いながらも、そろそろ出発しなければ、列車の時間に間に合わない。母の夕餉のためのこの蚕豆(そらまめ)をむき終わったら、帰ることにしようと心に決めている。どこか、短歌的な世界を思わせる(字余りの技巧)情感溢れる作品だ。それはそれとして、父と子との場合は、こういうふうにはならない。「じゃ、また……」などと、そっけなく息子は帰っていく。淡白なものだ。そこへいくと、母と娘の情愛の濃さは、私など男にとっては不思議に思えるほどである。ひさしぶりの邂逅にも、すぐに口喧嘩をはじめたかと思えば、次の瞬間にはけろりと笑い合ったりしている。まことに母娘の関係は測りがたしと、我が家の女性たちを見ていても、つくづくと思ってきた。そんな関係のなかで、娘は一心に蚕豆をむいている。さみどり色の大粒の蚕豆を台所に残して、娘はまた彼女の実生活に戻っていくのだ。束の間としか思えなかった母親との時間。別れた後に、この蚕豆のきれいな色彩が、娘より母への万感の感情を手渡してくれるだろう。(清水哲男)




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