久しぶりの方もいらっしゃいますね。ゴールデン・ウイークは如何でしたでしょうか。




1999ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0651999

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

                           中村草田男

ささか、体調がすぐれないのだろう。作者は毒消しを飲んでいるのだが、しかし、いよいよ夏がやってきたということで、憂鬱な心は吹っ飛んでいる。さあ、どんどん俳句を書くぞと、その気持ちが体内の毒に勝っている。実際、草田男には夏の句が多い。季節ごとに分冊された歳時記を見ても、夏の巻がいちばん分厚いから、夏は俳人一般にとっても最も創作欲がわく季節なのかもしれない。ところで、「毒消し」はその昔に富山の薬売りが置き薬としていた一種の解毒剤だ。何の毒を消すのかは定かでないままに、私も腹痛のときに飲んだことがある。薬売りは年に一度、定期的に各家を訪問して、昨年置いて帰った薬の飲まれた分だけの料金を徴収し、また新しい薬を独特の木箱に補充して去っていく商売だった。医療機関や救急医療制度が発達していなかった時代の、なかなか巧みに考えられたシステムよる商法で、覚えている読者も多いだろう。貧乏な我が家では、この毒消しをいかに痛みを我慢して飲まないですますかが、切実なテーマであったことを思い出す。(清水哲男)


May 0551999

 力ある風出てきたり鯉幟

                           矢島渚男

田峠の初期に「寄らで過ぐ港々の鯉のぼり」があって、これらの鯉幟は海風を受けているので、へんぽんと翻っている様子がよくうかがえる。が、内陸部の鯉幟は、なかなかこうはいかない。地方差もあるが、春の強風が途絶える時期が、ちょうど鯉幟をあげる時期だからだ。たいていの時間は、だらりとだらしなくぶら下がっていることが多い。そこで、あげた家ではいまかいまかと「力ある風」を期待することになる。その期待の風がようやく出てきたぞと、作者の気持ちが沸き立ったところだろう。シンプルにして、「力」強い仕上がりだ。鯉幟といえば、「甍の波と雲の波、重なる波の中空に」ではじまる子供の歌を思いだす。いきなり「甍(いらか)」と子供には難しい言葉があって、大人になるまで「いらか」ではなく「いなか」だと思っていた人も少なくない。「我が身に似よや男子(おのこご)と、高く泳ぐや鯉のぼり」と、歌は終わる。封建制との関連云々は別にしても、なんというシーチョー(おお、懐しい流行語よ)な文句だろう。ほとんどの時間は、ダラーンとしているくせに……。ひるがえって、鯉幟の俳句を見てもシーチョーな光景がほとんどで、掲句のように静から動への期待を描いた作品は珍しいのだ。俳句の鯉幟は今日も、みんな強気に高く泳いでいる。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


May 0451999

 遠つ世へゆきたし睡し藤の昼

                           中村苑子

棚の前に立つと、幻惑される。まして暖かい昼間だと、ぼおっとしてくる。おそらくは、煙るような薄紫の花色のせいもあるのだろう。桐の花にも、同じような眩暈を覚えたことがある。「遠つ世」とは、あの世のこと。よく冗談に「死にたくなるほど眠い」と言ったりするけれど、句の場合はそうではない。あえて言えば「眠りたくなるほど自然に死に近づいている」気分が述べられている。この句は、作者自身が1996年に編んだ『白鳥の歌』(ふらんす堂)に載っている。表題からして死を間近に意識した句集の趣きで、読んでいるとキリキリと胸が痛む。と同時に、だんだん死が親しく感じられてもくる。つづいて後書きを読んだら、さながら掲句の自註のような部分があった。「……最近見えるものが見えなくなったのに、いままで見たいと思っても見えなかったもの、聞きたいと思っても聞こえなかったもろもろのものが、はっきり見えたり聞こえたりするようになったので、少々、心に決することがあり、この集を、みずからへおくる挽歌として編むことにした」と。決して愉快な句ではないが、何度も読み返しているうちに、ひとりでに「これでよし」と思えてきて、おだやかな気分になる。(清水哲男)




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