半島情勢に向けての戦略マニュアルが衆院通過。ミサイルが飛んできても知らないよ。




1999ソスN4ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2841999

 睡るとはやさしきしぐさ萩若葉

                           後藤夜半

んという「やさしい」句境だろう。このトゲトゲしい世相のなかに置いてみるとき、この句そのものが、さながら「萩若葉」のようである。「萩若葉」から人の寝姿を連想したところも非凡だが、作者の眼目はむしろ「睡る」姿を「しぐさ(仕草)」と捉えた点にありそうだ。「睡る」姿(動作)も、言われてみればたしかに仕草のうちではあるけれど、普通に言うところの「しぐさ」は、もう少し何らかのモーションを伴っている。「じっとしている動作」に、あまり「しぐさ」という言葉は使わないはずだ。そこにあえて「しぐさ」と言葉を当ててみたわけで、流線の枝にさみどり色の若葉を散らして微風に揺れる萩の姿形に、ぴたりと合致したのだった。「仕草」ではなく「しぐさ」としたのは、むろん「萩若葉」のやわらかさに照応させるためである。まさに名人・夜半の、静かなる得意の顔が浮かんでくるような句ではないか。作者の意識のなかにある「睡る」人は、もちろん女人だろう。古来、萩は若葉の頃から、男には悩ましい植物として詠まれてきた。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


April 2741999

 ひらひらと春鮒釣れて慰まず

                           大井戸辿

ぜ「慰まず」なのか。一つには作者の精神的な理由によるものだろうが、そのことは句からはうかがい知れぬ事柄だ。もう一つには、春の鮒は釣りやすいということがあるのだろう。鮒は春の産卵期に、深いところから浅いところへと移動する。どうかすると、田圃にも入り込むことがある。これを乗込鮒(のっこみぶな)と言い、小さな子供にでも簡単に釣れる。そんな鮒を、大人が「ひらひらと」釣ってみても、たいした面白みはないということだ。魚釣は、あまり釣れ過ぎても興醒めなものである。思い出すが、子供の頃には夢中で春の鮒を釣った。シマミミズを餌にして、日暮れまで飽きもせずに釣りまくった。釣った鮒たちをバケツに入れて帰ると、母がハラワタを取り出してくれ、それから一匹ずつを焼くのである。台所もない間借り生活だったので、表に七輪を持ち出して焼いた。アミに乗せると、新鮮な鮒だから、乗せた途端に熱に反応して飛び上がる。飛び上がって地面に落ち、砂まみれになる鮒もいて、これには往生させられた。こんな春の鮒を食べて、私は育った。句とはまた違う意味で、私も「慰まず」と言いたい気持ちである。(清水哲男)


April 2641999

 ある朝の焼海苔にあるうらおもて

                           小沢信男

苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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