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April 2741999

 ひらひらと春鮒釣れて慰まず

                           大井戸辿

ぜ「慰まず」なのか。一つには作者の精神的な理由によるものだろうが、そのことは句からはうかがい知れぬ事柄だ。もう一つには、春の鮒は釣りやすいということがあるのだろう。鮒は春の産卵期に、深いところから浅いところへと移動する。どうかすると、田圃にも入り込むことがある。これを乗込鮒(のっこみぶな)と言い、小さな子供にでも簡単に釣れる。そんな鮒を、大人が「ひらひらと」釣ってみても、たいした面白みはないということだ。魚釣は、あまり釣れ過ぎても興醒めなものである。思い出すが、子供の頃には夢中で春の鮒を釣った。シマミミズを餌にして、日暮れまで飽きもせずに釣りまくった。釣った鮒たちをバケツに入れて帰ると、母がハラワタを取り出してくれ、それから一匹ずつを焼くのである。台所もない間借り生活だったので、表に七輪を持ち出して焼いた。アミに乗せると、新鮮な鮒だから、乗せた途端に熱に反応して飛び上がる。飛び上がって地面に落ち、砂まみれになる鮒もいて、これには往生させられた。こんな春の鮒を食べて、私は育った。句とはまた違う意味で、私も「慰まず」と言いたい気持ちである。(清水哲男)


May 2652002

 少女らは小鳥のごとし更衣

                           大井戸辿

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。この風習もかなりすたれてきたが、学校や企業等によっては、日を定めていっせいに制服を夏のものに着替える。学校の制服姿は人数も多いので目立つから、否応なく新しい季節の到来を感じさせられることになる。さて、掲句には類句累々。さしたる発見はなけれども、しかし、なんだかほほ笑ましい。そしてちょっぴり哀しいのは、あえて「少女らは小鳥のごとし」と凡庸な比喩を使った作者と「少女ら」との距離と時間の遠さによる。作者が少年であれば、決してこのように詠むことはないだろう。男として年輪を重ねてきた人でなければ、こんなバカな(失礼)比喩は使えない。若い読者には奇異に受け止められるかもしれないが、この句をじいっと見つめていると、浮かび上がってくるのは作者の老境である。句を裏返せば「小鳥らは少女のごとし」であっても、いっこうに差し支えはないのだ。それほどに他人事というか、もはや少女との交流など考えも及ばない年齢の諦観みたいな心境がじわりと露出してくる。小鳥が本質的には無縁なように少女とも無縁で、もはや両者を等価にしか捉えられない哀しさよ。作者の本意はどうであれ、この平々凡々とした比喩が告げているのは、そういうことなのだと思われた。いま反射的に思い出したのは、その昔に仕事の相棒だった女性の、私には衝撃的だった少女観。「小学校高学年から中学くらいの女の子が、いちばん汚らしく見えるのよね」。となれば、掲句に賛同できる女性は少ないかもしれない。少なくとも一般的に可愛らしいとしてよい「小鳥」の比喩には、我慢がならないかもしれない。「俳句」(2002年6月号)所載。(清水哲男)




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