道端で満開の小手鞠を見ていたら、自転車の人に花の名を聞かれた。初めての体験。




1999ソスN4ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2741999

 ひらひらと春鮒釣れて慰まず

                           大井戸辿

ぜ「慰まず」なのか。一つには作者の精神的な理由によるものだろうが、そのことは句からはうかがい知れぬ事柄だ。もう一つには、春の鮒は釣りやすいということがあるのだろう。鮒は春の産卵期に、深いところから浅いところへと移動する。どうかすると、田圃にも入り込むことがある。これを乗込鮒(のっこみぶな)と言い、小さな子供にでも簡単に釣れる。そんな鮒を、大人が「ひらひらと」釣ってみても、たいした面白みはないということだ。魚釣は、あまり釣れ過ぎても興醒めなものである。思い出すが、子供の頃には夢中で春の鮒を釣った。シマミミズを餌にして、日暮れまで飽きもせずに釣りまくった。釣った鮒たちをバケツに入れて帰ると、母がハラワタを取り出してくれ、それから一匹ずつを焼くのである。台所もない間借り生活だったので、表に七輪を持ち出して焼いた。アミに乗せると、新鮮な鮒だから、乗せた途端に熱に反応して飛び上がる。飛び上がって地面に落ち、砂まみれになる鮒もいて、これには往生させられた。こんな春の鮒を食べて、私は育った。句とはまた違う意味で、私も「慰まず」と言いたい気持ちである。(清水哲男)


April 2641999

 ある朝の焼海苔にあるうらおもて

                           小沢信男

苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


April 2541999

 鉄道員雨の杉菜を照らしゆく

                           福田甲子雄

の夜のレール点検作業だ。懐中電灯でか、カンテラでか。どこを照らしても、その光の輪のなかに杉菜が見られる季節になった。黒い合羽の鉄道員と、雨に輝く杉菜の明るい緑との対比が印象的だ。田舎の単線での光景だろうか。杉菜は強いヤツで、どこにでもはびこる。『鉄道員』というイタリア映画があった。主人公の貧しい生活と鉄道員であることの誇りとが、リアリズム風に描かれていた。が、そんな当人たちの実体とはかけはなれたところで、この呼称そのものに独特な響きを感じる時代があった。たとえ単線であろうとも、一国の大動脈に関わる職業というわけで、社会も敬意をはらった時代が確実に存在した。六十年以上も前に、熊本工業を卒業するにあたって、川上哲治が職業野球に行くか、それとも「鉄道に出るか」と悩んだ話は有名だ。世間的なステータスは、もちろん「鉄道」のほうが断然高かった。天下の国鉄労働者は、憧れの職業だったのだ。今は、どうなのだろう。鉄道員は健在だし、レール点検のような基礎的な作業は、句のように行われている。そのご苦労に、しかし、敬意をはらう感覚は薄れてしまったのではあるまいか。そういえば、いつの頃からか、子供たちの「電車ごっこ」も姿を消したままだ。(清水哲男)




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