福田甲子雄の句

April 2541999

 鉄道員雨の杉菜を照らしゆく

                           福田甲子雄

の夜のレール点検作業だ。懐中電灯でか、カンテラでか。どこを照らしても、その光の輪のなかに杉菜が見られる季節になった。黒い合羽の鉄道員と、雨に輝く杉菜の明るい緑との対比が印象的だ。田舎の単線での光景だろうか。杉菜は強いヤツで、どこにでもはびこる。『鉄道員』というイタリア映画があった。主人公の貧しい生活と鉄道員であることの誇りとが、リアリズム風に描かれていた。が、そんな当人たちの実体とはかけはなれたところで、この呼称そのものに独特な響きを感じる時代があった。たとえ単線であろうとも、一国の大動脈に関わる職業というわけで、社会も敬意をはらった時代が確実に存在した。六十年以上も前に、熊本工業を卒業するにあたって、川上哲治が職業野球に行くか、それとも「鉄道に出るか」と悩んだ話は有名だ。世間的なステータスは、もちろん「鉄道」のほうが断然高かった。天下の国鉄労働者は、憧れの職業だったのだ。今は、どうなのだろう。鉄道員は健在だし、レール点検のような基礎的な作業は、句のように行われている。そのご苦労に、しかし、敬意をはらう感覚は薄れてしまったのではあるまいか。そういえば、いつの頃からか、子供たちの「電車ごっこ」も姿を消したままだ。(清水哲男)


January 0712002

 日の暮のとろりと伸びし松納

                           福田甲子雄

語は「松納(まつおさめ)」で新年。門松を取り払うこと。昔の江戸では六日、京大阪では十四日に納めた。地方によって異なり、伊達藩では四日に取って「仙台様の四日門松」と言われたそうだ。いつまでも正月気分では藩内がたるんでしまうという、伊達家の生真面目さからだろう。いまの東京あたりでは、今日七日に取る家が多いようだ。いずれにしても、取り払うのは夕方である。いざ門松を取り払ってみると、周囲に漂っていた淑気が消え、一抹の寂しさを覚える。作者もそのように感じているのだが、冬至のころとは違い、やや「日の暮」も伸びてきている。沈んでいく夕陽を眺めやると、いささか「とろりと」もしてきたようで、季節は確実に春に向かっていることが実感された。そんな太陽の様子の形容を、時間のそれに移し替えたのが「とろりと伸びし」。すなわち、門松を取り払った物寂しさのうちにも、春待つ心が芽生えてきた喜びを詠んだ句だ。寂しさを寂しさのまま止めていないので、読者も「とろりと」暖かい心持ちになれる。ところで、今日は七草。次の句も「とろりと」暖かい。「末寺とて七草までを休みをり」(神蔵器)。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


September 0292002

 廃船のたまり場に鳴く夏鴉

                           福田甲子雄

廃船
書に「石狩川河口 三句」とある。つづく二句は「船名をとどむ廃船夕焼ける」と「友の髭北の秋風ただよはせ」だ。三句目からわかるように、作者が訪れたのは暦の上では夏であったが、北の地は既に初秋のたたずまいを見せていた。石狩川の河口には三十年間ほどにわたり、十数隻の木造船が放置されていて、一種の名所のようになっていたという(1998年に、危険との理由で撤去された)。この「たまり場」の廃船を素材にした写真や絵画も、多く残されている。かつて荒海をも乗り切ってきた船たちが、うち捨てられている光景。それだけでも十分に侘しいのに、鴉どもが夕暮れに寄ってきては、我関せず焉とばかりに鳴き立てている。しかし、その無神経とも思える鳴き声が、よけいに作者の侘しさの念を増幅するのだった。そのうちにきっと、野放図な鴉の声もまた、廃船の運命を悼んでいるようにも聞こえてきたはずである。この句の成功の要因を求めるならば、鳴いているのが「夏鴉」だからだ。「秋鴉」としても現場での実感に違和感はなかったろうが、いわゆる付き過ぎになって、かえって句柄がやせ細ってしまう。したがって、たとえばここしばらくのように、実感的に秋とも言え夏とも言える季節の変わり目で、写生句を詠むときの俳人は「苦労するのだろうな」などと、そんなことも思わせられた掲句である。写真は北海道テレビのHPより、廃船を描く最後の写生会(1998年6月)。『白根山麓』(1988・邑書林句集文庫版)所収。(清水哲男)


October 06102002

 終バスの灯を見てひかる谷の露

                           福田甲子雄

舎の夜道は暗い。暗いというよりも、漆黒の闇である。谷間の道を行くバスのライトは、だから逆に強烈な明るさを感じさせる。カーブした道を曲がるときには、山肌に密生する葉叢をクローズアップするように照らすので、たまった「露」の一粒までをも見事に映し出す。百千の露の玉。作者は「終バス」に乗っているのだから、旅の人ではないだろう。所用のために、帰宅の時間が遅くなってしまったのだ。めったに乗ることのない最終便には、乗客も少ない。もしかすると、作者ひとりだったのかもしれない。なんとなく侘しい気持ちになっていたところに、「ひかる露の玉」が見えた。それも「灯を見てひかる」というのだから、露のほうが先にバスのライトを認めて、みずからを発光させたように見えたのだった。つまり露を擬人化しているわけで、真っ暗ななかでも、バスの走る谷間全体が生きていることを伝えて効果的だ。住み慣れた土地の、この思いがけない表情は、バスの中でぽつねんと孤立していた気持ちに、明るさを与えただろう。シチュエーションはまったく違うけれど、読んだ途端にバスからの連想で、私は「トトロ」を思い出していた。あのトトロもまた、生きている山村の自然が生みだしたイリュージョンである。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


March 2532003

 風光る白一丈の岩田帯

                           福田甲子雄

語は「風光る」で春。「岩田帯」は、妊娠した女性が胎児の保護のために腹に巻く白い布のこと。一般に、五ヶ月目の戌の日(犬の安産にあやかるため)に着ける。命名の由来は「斎肌帯」からとか、現在の京都府八幡市岩田に残る伝説からとか、諸説がある。心地よい春風のなかを、お祝いの真っ白な岩田帯が届けられたのだろう。新しい生命の誕生を待ちわびる作者の喜びが、真っすぐに伝わってくる。「白一丈(正確には七尺五寸三分)」とすっぱりと言い切って、喜びの気持ちのなかに厳粛さがあることを示している。純白の帯が、目に見えるようだ。ところで掲句の解釈とは無関係だが、だいぶ以前の余白句会で「風光る」が兼題に出たことがある。句歴僅少の谷川俊太郎さんが開口一番、「なんだか恥ずかしくなっちゃうような季語だねえ」と言った。一瞬、私は何のことかわからなかったが、考えてみればそうなのである。たとえば「風光る」と詩に書くとすると、かなり恥ずかしい。散文でも、同様だ。きざっぽくて、鼻持ちならない。逆に、ひどく幼稚な表現になってしまう場合もあるだろう。となると、俳句を詠まない人が、たまたま「風光る」の句を読んだとすれば、相当な違和感を覚えるはずである。俳人なら別になんとも思わないことが、そうでない人には奇異に写る……。こういう目で見ていくと、恥ずかしくなるような季語は他にもありそうだ。俳句が本当の意味での大衆性を獲得できない原因の一つは、ここらへんにもあるのだろう。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


March 0232004

 宰相のごとき声だす恋の猫

                           福田甲子雄

語は「恋の猫(猫の恋)」で春。発情して狂おしく鳴く猫の声を聞いているうちに、「待てよ、誰かの声に似てるな」と思い、思い当たったのが時の「宰相(さいしょう)」の声だった。今度は意識して耳傾けてみると、たしかに似ている。似すぎている。我ながら見事な発見に大満足して、早速書き留めた一句である。嘱目吟ならぬ嘱耳吟とでも言うべきか。作句年代は1980年(昭和55年)だ。で、当時の宰相は大平正芳総理大臣。発言の時に「あ〜、う〜、……」を連発する独特の訥弁口調は、政策云々とは別次元で、多くの人に人気があった。人気という点から言うと、その風貌とともに、戦後では吉田茂に次ぐ人物だったと思う。この句を知ったのは四、五年ほど前のことで、猫にもよるだろうが、なんとか大平的恋猫の声を私も聞いて確かめてみたいと思い、春が来るたびに期待していたのだが、今日まで果たせていない。数年前からどういうわけか、大平的も何も、我が集合住宅の近辺から猫が一匹もいなくなってしまったからである。猫を飼うことは禁止なので飼い猫がいないのは当然としても、しかしそれまではかなりの数の野良猫たちが跋扈しており、交尾期にはやかましいほど鳴いていたというのに、である。なかにはナツいていると、こっちが勝手に思っていた奴もいた。近づくと、ごろにゃんとばかりに仰向けになったものだ。それが、みんないっせいに、どこへ消えちゃったんだろうか。とても気になる。だんだん句から離れそうになってきたが、掲句のようなことが詠めるのも、やはり俳句様式ならではのことと言えよう。俳句は時代のスナップ写真としても機能する。このことについては、既に何度か書いた。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


April 2742005

 井の底に人声のする暮春かな

                           福田甲子雄

語は「暮春(ぼしゅん)」、「暮の春」に分類。春も終わりに近いある日、「井の底に人声」がしている。井戸浚(いどさら)えをしているのだろう。俳句で「井戸浚」あるいは「井戸替」といえば夏の季語だが、実際はとくだん夏に決まったものではない。夏の季語としているのは、その昔盆の前に水をきれいにしておく習慣や行事があったからだ。七夕の日が多かったようである。井戸の水を干して、底に溜まった塵芥を人の手でさらう。その人の声がときおり地上に聞こえてくるわけだが、あれはなんとも不思議な気がするものだ。私も、子供の頃に何度か体験した。ふだんは聞こえてこない地の底からの声であり、それが細い筒状の井戸に反響して上がってくるので、少しく浮世離れした感じがするのである。といっても決して不気味なのではなく、むしろのんびりした長閑な声とでも言うべきか。それが往く春の風情に無理なく溶け込んできて、おそらく作者はこのとき微笑を浮かべていたに違いない。ご存知の方も多いだろうが、作者は一昨日(2005年4月25日)未明に亡くなられた。享年七十七。俳人には長命の方が多いので、なんだかとてもお若く思われてしまう。つつしんでお悔やみ申し上げます。合掌。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


August 2782005

 ちらつく死さへぎる秋の山河かな

                           福田甲子雄

年の四月に亡くなった作者が、昨秋の入院時に詠んだ句である。こういう句は、観念では作れない。胃のほとんどを切除するという大手術であったようだ。「切除する一キロの胃や秋夜更く」。掲句の「ちらつく死」はもとより観念ではあるけれど、そういうときだったので、より物質的な観念とでも言おうか、まったき実感としておのれを苛んだそれだろう。そうした実感,恐怖感を「秋の山河」が「さへぎる」と言うのである。このとき「さへぎる」とは、ちらつく死への思いを消し去るということではなく,文字通りに立ちふさがるという意味だろう。悠久の山河を目の前にしていると,束の間自分が死んでしまうことなどあり得ないような気がしてくる。昨日がそうであったように、今日もそしてまた明日も、自分の生命も山河のようにつづいていくかと思われるのだ。だが、山河は悠久にして非情なのだ。そんな一瞬の希望を、簡単にさえぎって跳ね返してくる。すなわち、山河を見やれば見やるほど,ちらつく死の思いはなおさらに増幅されてくるということだろう。怖い句だ。いずれ私にも,実感としてこう感じる時期が訪れるのだろうが、そのときに私は耐えられるだろうか。果たして,正気でいられるかどうか、まったく自信がない。そう考えると、あらためて作者の精神的な強さに驚かされるのである。合掌。遺句集『師の掌』(2005)所収。(清水哲男)


October 17102005

 秋の波鳶の激しさときに見ゆ

                           福田甲子雄

語は「秋の波」、「秋の海」に分類。高い秋空の下に広がる爽やかな海。浜辺も、そこに寄せる波も、夏に比べると清澄である。やや淋しい感じがするけれど、だから好きだという人は多い。私も、その一人だ。掲句は、そんな静かで平和な風景を切り裂くように、ときに「鳶(とび)」が激しい動きを見せると言うのである。それまでは静かな風景の一部に溶け込んでいた鳶が、いきなり秋の波をめがけて急降下してくる。魚の死体だろうか、餌を発見して、それをかっさらうためだ。この静と動の鮮やかな対比は、そのまま自然の奥深さを指差しているだろう。鳶は、なにも秋の波を引き立てるために飛んでいるわけじゃない。すなわち、自然は人間の思惑通りにあるのではないということだ。しかし作者は、「ときに」そうした荒々しい動きがあるからこそ、なおいっそう静かな秋の波に魅入られているのだろう。ところで、昔の人は秋の波を女性の涼しげな目に見立てて、「秋波(しゅうは)」と言った。が、「いつの間にか、女性が媚を含んだ目で見つめたり、流し目を使ったりすることを『秋波を送る』というようになりました。/最近では、異性関係以外でも使われますが、男性が女性へ『秋波を送る』とはいいません」(山下景子『美人の日本語』)。なぜ、そうなってしまったのか。大いに気になるが、この本に説明はなかった。ご存知の方、おられますでしょうか。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 12112005

 子供らの名を呼びたがふ七五三祝

                           福田甲子雄

語は「七五三(祝)」で、冬。「七五三祝」の場合は「しめいわい」と読む。男の子は数え年三歳と五歳、女の子は三歳と七歳を祝う。十一月十五日だが、今日と明日の休日を利用して氏神に詣でるお宅も多いだろう。句の「子供ら」は、お孫さんたちだろうか。たまたまこの年に何人かの祝いが重なって、作者宅に集まった。むろん、直接この年の七五三には関係のない兄弟姉妹も集まっているから、いやまあ、その賑やかなこと。上機嫌の作者は、何かと「子供ら」に呼びかけたりするわけだが、何度も「名前を呼びたがふ(呼び間違える)」ことになって苦笑している。覚えのある読者もおられるに違いない。あれは、どういう加減からなのか。その子の名前を忘れているのではないのだが、咄嗟に別の名前が出て来てしまう。すぐに訂正するつもりで、またまた別の名前を呼んでしまうことすらある。孫大集合などは滅多にないことなので、迎える側が多少浮き足立っているせいかもしれない。でも、それだけではなさそうだ。考えてみれば名前は人を識別する記号だから、識別する必要のない環境であれば、名前などなくてもよい理屈だ。掲句のケースだと、たくさんの孫に囲まれて作者は大満足。環境としては、どの孫にも等分の愛情を感じているわけで、すなわち記号としての名前などは二の次となる。だから「呼びたがふ」のも当たり前なのだ。と思ってはみるものの、しかしこれはどこか屁理屈めいていそうだ。何故、しばしば間違えるのか。どなたか、すかっとする回答をお願いします。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


December 12122008

 山中の吹雪抜けきし小鳥の目

                           福田甲子雄

生の動物にとって厳しい冬がやってきた。烏も鳶も雀も狸も狐もみんな飢えている。山は削られ海は埋め立てられ宅地やマンションに造成されて、人間と共生する野生は次第に追い詰められていく。デパートの地下食品売り場を歩いたり、回転寿司の席に腰掛けるとき、月に一日くらい動物たちにこの場を開放してやったらと夢想する。デパ地下に烏や鳶や犬猫が溢れ、満腹になるまで食べる。回転寿司の席に座った犬は遠くから流れてくるお目当てのマグロを尻尾を振りながら待つ。公園や街角で野良猫に餌をやっている人よ、烏にも少しお裾分けしてやってくれないか。金の都合ばかりで、こんなに自然を痛めつけたのにまだ人間と一緒にいてくれている友だちのために。『白根山麓』(1982)所収。(今井 聖)


April 1142011

 霾天や喪の列長き安部医院

                           福田甲子雄

く俳句に親しんでいる人ならともかく、「霾」という漢字を読める人は少ないだろう。「ばい」と読み(訓読みでは「つちふる」)、句では気象用語でいう「黄砂」のことだ。一般的には黄砂に限らず、広く火山灰なども含めて言うようである。小さな町の名士の葬儀だろう。人望のあったお医者さんらしく、医院兼自宅で行われている葬儀には長い喪の列がつづいている。みんな、一度は故人の診察を受けたことのある人々である。空は折りからの黄砂のせいでどんよりと黄色っぽくなっており、あたり全体にも透き通った感じはない。どことなく黄ばんだ古い写真を思わせる光景である。このときの黄砂は偶然の現象だが、このどんよりした空間から感じられるのは、安部医院の歴史の古さであり、ひいてはこの医院にまつわるときどきの人々が織りなしてきた哀楽のあれこれだ。「霾」という季語を配したことによって、句は時間と空間の絶妙な広がりを持つことになった。作者の手柄は、ここに尽きる。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


June 2462011

 いくたびか馬の目覚める夏野かな

                           福田甲子雄

の馬、どういう状態にいるのか。行軍の記憶のようでもあり、旅のイメージも感じられるし、夏野を前景として厩の中にいる馬の様子のようでもある。目覚めという言葉から加藤楸邨の代表句で墓碑にも刻まれている「落葉松はいつ目覚めても雪降りをり」が浮かぶ。手術後の絶対安静の状態で見た夢ともうつつともつかない風景というのが定説だが、僕には墓に刻まれていることもあって、楸邨が墓の中で眠っては目覚めの繰り返しを永遠に重ねているようにも思える。そういう目覚めを考えていたら、甲子雄さんの句は人に尽くしたあげく野に逝った無数の馬の霊に思えてきた。馬頭観世音の句だ。『金子兜太編・現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)


July 2472011

 地下深き駅構内の氷旗

                           福田甲子雄

の句をはじめて読んだ時には、東京駅近くの地下街を思い出しました。でも句は、「駅構内の」と明確に言っています。勝手に読み違えていたのに、なんだか抱いていた印象が失われてしまったようで、さびしくなります。でも、読み違えを正してから読みなおしてみても、やはり印象の深い句に違いはありません。この句の魅力は、物が、当然あるべき場所ではないところにある、その意外性にあります。氷旗といえば、炎天下の道に、入道雲の盛り上がった空に向かって立っているのが普通です。しかしこの句では、空もない、風もない、強い日差しもない場所に、ただ立てられているというのです。視覚的な逆説、とでも言えるでしょうか。もちろん通りすがりに構内の氷旗を見た人の頭の中には、そこから大きな夏の空が広がってきてはいるのです。この句を読んだ人たちの想像の中にも、きちんと夏雲が盛り上がってきているように。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


November 02112012

 終刊の号にも誤植そぞろ寒

                           福田甲子雄

植は到るところに見られる。気をつけていても出てしまう。僕も第一句集の中の句で壊のところを懐と印刷してしまった。その一冊をひらくたび少し悔やまれる。自分の雑誌で投句の選をしているので誤字、脱字、助詞の用法などを直したつもりでいると作者からあとで尋ねられたりする。大新聞と言われる紙面に誤植を見ることはめったにないが、それでもたまに見つけるとなぜかうれしくなる。終刊の号にも誤植がみつかる。誤植は人間がやることの証。業のようなものだ。月刊「俳句」(2012年6月号)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます