蛙は水に飛び込むか。大反響、感謝深謝です。近々、メールを整理して別ページにて。




1999ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2341999

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

の実家に土蔵があったので、幼いころから内部の雰囲気は知っている。言ってみれば大きな物置でしかないのだが、構造はむしろ金庫に似ている。巨大な閂状の錠前を開けると、もうひとつ左右に引き開ける木製の内扉があって、入っていくと古い物独特の匂いが鼻をついた。蔵の窓は小さいので、内部は薄暗く、不気味だった。子供心に、蔵に入ることはおっかなびっくりの「探検」のように思えたものだ。江戸川乱歩は、この独特の雰囲気を利用して、蔵の中で怖い小説を書いたそうだが、たしかに蔵には心理的な怖さを強いる何かがある。そしてこの句には、そうした蔵の怖さと不気味さを描いて説得力がある。春の陽射しのなかにある土蔵は、民話的な明るさを持っている。微笑したいような光景だけれど、その内部で起きている「劇」を想像せずにはいられない作者なのだ。「からすのはんこ」を押しているのは、誰なのか。「からすのはんこ」とは何か。そのことが一切語られていないところに、怖さの源泉があるのだろう。とくに「はんこ」を押す主格の不在が、読者に怖さをもたらす。実景は「春の蔵」だけであり、後は想像の産物だ。虚子の言った「実情実景」がここまで延ばされるとき、俳句は見事に新しくなる。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


April 2241999

 逃げ水のごと燦々と胃が痛む

                           佐藤鬼房

々と胃が痛むとは、珍しい表現だ。しかも「逃げ水」のようにというのだから、時々キリキリッとあざやかに痛んでは、またすうっと嘘のように痛みがおさまるという症状だろうか。私は幸いにして、ほとんど腹痛とは無縁できたので、句の種類の痛みには連想が及ばない。慢性的な鈍痛でないことだけは、わかるのだが……。「逃げ水」は、科学的には蜃気楼現象の一種と考えられているそうだ。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、そこには水の気配もない。そこから遠くを見ると、また前方には「水」がある。あたかも水が逃げてしまったように感じられることから「逃げ水」と言う。古来「武蔵野の逃水」は有名で、古歌にも登場する。昔の武蔵野はどこまで言っても草の原という趣きだったので、風にそよぐ草また草を遠くから見ると、しばしば水が流れているように見えたのだろう。現在の季題としては武蔵野に限定されてはおらず、掲句のように、一般的にそうした現象を詠むようになった。(清水哲男)


April 2141999

 古池や蛙とび込む水の音

                           松尾芭蕉

句に関心のない人でも、この句だけは知っている。「わび」だの「さび」だのを茶化す人は、必ずこの句を持ち出す。とにかく、チョー有名な句だ。どこが、いいのか。小学生のときに教室で習った。が、そのときの先生の解説は忘れてしまった。覚えておけばよかった。どこが、いいのか。古来、多くの人たちがいろいろなことを言ってきた。そのなかで「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭にあってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である」と言ったのは、高浜虚子だ(『俳句はかく解しかく味う』所載)。私も、一応は賛成だ。つづけて虚子は、この句がきっかけとなって「実情実景」をそのままに描く芭蕉流の俳句につながっていく歴史的な価値はあると述べている。この点についても、一応異議はない。が、私は長い間、この句の「実情実景」性を疑ってきた。芭蕉の空想的絵空事ではないのかと思ってきた。というのも、私(田舎の小学生時代)が観察したかぎりにおいて、蛙は、このように水に飛び込む性質を持っていないと言うしかないからだ。たしかに蛙は地面では跳ねるけれど、水に入るときには水泳選手のようには飛び込まない。するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。そこでお願い。水に飛び込む蛙を目撃した方がおられましたら、ぜひともメールをいただきたく……。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます