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April 2241999

 逃げ水のごと燦々と胃が痛む

                           佐藤鬼房

々と胃が痛むとは、珍しい表現だ。しかも「逃げ水」のようにというのだから、時々キリキリッとあざやかに痛んでは、またすうっと嘘のように痛みがおさまるという症状だろうか。私は幸いにして、ほとんど腹痛とは無縁できたので、句の種類の痛みには連想が及ばない。慢性的な鈍痛でないことだけは、わかるのだが……。「逃げ水」は、科学的には蜃気楼現象の一種と考えられているそうだ。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、そこには水の気配もない。そこから遠くを見ると、また前方には「水」がある。あたかも水が逃げてしまったように感じられることから「逃げ水」と言う。古来「武蔵野の逃水」は有名で、古歌にも登場する。昔の武蔵野はどこまで言っても草の原という趣きだったので、風にそよぐ草また草を遠くから見ると、しばしば水が流れているように見えたのだろう。現在の季題としては武蔵野に限定されてはおらず、掲句のように、一般的にそうした現象を詠むようになった。(清水哲男)


March 2532001

 浮き世とや逃げ水に乗る霊柩車

                           原子公平

語は「逃げ水」で、春。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、また遠ざかって見える現象。一説に、武蔵野名物という。友人知己の葬儀での場面か、偶然に道で出会った霊柩車か、それは問わない。「逃げ水」の上に、ぼおっと浮いたように霊柩車が揺れて去っていく。そこをつかまえて「浮き世とや」と仕留めたところには諧謔味もあるが、人間のはかなさをも照らし出していて、淋しくもある。霊柩車はむろん現世のものだが、こうして見ると彼岸のもののようにも見える。まさにいま、この世が浮いているように。死んでもなお、しばらくは「浮き世」離れできないのが人間というものか。句集の後書きを読んだら、きっぱりと「最後の句集」だと書いてあった。また「『美しく、正しく、面白く』が私の作句のモットーなのである」とも……。宝塚歌劇のモットーである「清く、正しく、美しく」(天津乙女に同名の著書がある)みたいだが、揚句はモットーどおりに、見事に成立している。この句自体の姿が、実に「美しく、正しく、面白」い。いちばん美しく面白いのは、句の中身が「正しい」ところにある。「正しさ」をもってまわったり、ひねくりまわしたりせずに、「正しく」一撃のもとにすぱりと言い止めるのが、俳句作法の要諦だろう。言うは易しだが、これがなかなかできない。ついうかうかと「浮き世」の水に流されてしまう。「正しさ」を逃がしてしまう。話は変わるが、句の「逃げ水」で思い出した。「忘れ水」という言葉がある。たとえば池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」とあるように、川辺の草などが生い茂って下を流れる川の水が見えなくなることを指す。日本語の「美しく、正しく、面白く」の一端を示す言葉だ。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)


April 0542003

 逃水に死んでお詫びをすると言ふ

                           吉田汀史

語は「逃水(にげみず)」で春。草原などで遠くに水があるように見え、近づくと逃げてしまう幻の水[広辞苑第五版]。ときに舗装道路などでも見られる現象で、蜃気楼の一種だという。掲句を読んですぐに思い出したのは、敗戦時、天皇陛下に「死んでお詫びを」した人たちのことだ。敗戦は我々の力が足らなかったためだと自分を責めて、自刃を遂げた。あれから半世紀以上が経過した今、彼らの死を無駄であったと評価するのは容易い。「逃水」のような幻的存在に、最高の忠誠心を発揮したことになるのだから……だ。戦時中の私はまだ幼くて、空襲の煙に逃げ惑い機銃掃射におびえたくらいの体験しかないけれど、すでに祖国愛みたいな感情は芽生えていて、皇居前の自刃の噂にしいんとした気持ちになったことを思い出す。少なくとも、無駄な死などとは感じなかった。そうなのだ。人はたとえ幻にでも、状況や条件の如何によっては、忠誠を誓うことはできるのだ。ここで、かつての企業戦士を思ってもよいだろう。掲句は、そうした人のことを「と言ふ」と客観視している。しかし、冷たく馬鹿な奴めがと言っているのではない。むしろ、その人の心持ちに同調している。同調しながらも、他方で人間の不思議や不気味を思っている句だと、私には読める。作者が句を書いたのは、イラクの戦争がはじまる前のことだし、戦争のことを詠んでいるのかどうかもわからない。つまり直接今度の戦争には関係ないのだけれど、いまの時点で読むと、こんな具合に読めてしまう。最近の戦争報道でも、やたらと「忠誠」という言葉が出てくる。俳誌「航標」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


April 3042012

 浮き世とや逃げ水に乗る霊柩車

                           原子公平

者、八十歳ころの句。作者自身が最後の句集と記した『夢明り』(2001)に所収。あとがきに、こうある。「『美しく、正しく、面白く』が私の作句のモットーなのである。それもかなり『面白く』に重心が傾いてきているのではないか。現代的な俳諧の創造を目指しているわけだが、極く簡単に言えば、文学的な面白さがなくて何の俳句ぞ、ということになろう」。なるほど、この句はなかなかに「面白い」。いやその前に「美しく、正しい」と言うべきか。霊柩車を見送る作者の胸中には、故人に対する哀悼の意を越えて、これが誰も逃れられない「浮き世」の定めだという一種の諦観がある。それを「逃げ水に乗る」とユーモラスな描写で包んだところに、作者の言う面白さがにじみ出ている。この世から少し浮かびながら逃げていく霊柩車。人は死んではじめて、この世が「浮き世」であることを証明でもするかのように。(清水哲男)


March 2832015

 春の雲けもののかたちして笑う

                           対馬康子

れを書いている今日は朝からぼんやりと春らしいが、空は霞んで形のある雲は見当たらない。雲は、春まだ浅い頃はくっきりとした二月の青空にまさに水蒸気のかたまりらしい白を光らせているが、やがていわゆる春の雲になってくる。ゆっくり形を変える雲を目で追いながらぼーっとするというのはこの上なく贅沢な時間だが、この句にはどこか淋しさを感じてしまう。それは、雲が笑っているかのように感じる作者の心の中にある漠とした淋しさであり、読み手である自分自身の淋しさでもあるのだろう。他に<逃水も死もまたゆがみたる円周 ><火のごとく抱かれよ花のごとくにも  >。『竟鳴』(2014)所収。(今井肖子)




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