巨人辛勝。が、長嶋の投手起用は目茶苦茶だ。敗けても、斎藤と心中すべきだった。




1999ソスN4ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1641999

 都わすれ去就の鍵は妻子らに

                           水口千杖

の頭自然文化園に、注意しないと見のがしてしまいそうな小さな野草園があって、オダマキの花の横に、毎春ミヤコワスレが可憐に咲く。花色は、紫ないしは白。元来は、山地に自生する地味な野菊の仲間(ミヤマヨメナ)であったが、昭和に入ってから栽培されはじめ、花屋にも出まわるようになったという。案外と歴史の浅い花であるが、ネーミングが秀逸だ。したがって「此処にして都忘れとはかなし」(藤岡筑邨)というように、花そのものの印象よりも名前に引きずられた発想の句が多い。掲句も同様だ。が、この場合はもっと切実。おそらく作者は、意にそまない仕事に疲れているのだろう。いっそのこと遠くの地に転職でもしたいと考えているのだが、妻子の動揺を思うと、なかなか踏み切れない。春は転身の季節だから、毎年、この花が咲くころにそのことを思う。しかし、結局は、決心のつかぬままに何年も過ぎてしまった。そしてこの春もまた、庭に「都わすれ」が咲きはじめた。男たちにとっては、すんなりと共感できる哀しい自嘲句だ。なお、歳時記によっては「都忘れ」は秋に分類されている。元種の野菊と解すれば、そうなる。(清水哲男)


April 1541999

 蜆汁家計荒るるにまかせをり

                           小林康治

口青邨に「かちやかちやとかなしかりけり蜆汁」がある。「かちやかちや」と一つ一つ肉を出して食べていると、そのうちに哀しくなってくるという心持ちだ。ていねいに食べている自分も哀れなら、食べられている蜆も哀れである。庶民の食卓におなじみの蜆は小粒で地味だけれど、それだけに地味な生活感覚を表現する絶好の小道具として、昔から俳人に愛されてきた。句の場合は「かちやかちや」というよりも「がちゃがちゃ」と乱暴に食べている。自暴自棄に近い食べ方だ。汁だけすすって、後は「知らないよ」に近い。家計のやり繰り算段に悩んできて、必死に支えてはきたものの、ついに破綻してしまった事情が、この食べ方につながっている。家計が荒れれば心も荒れ、食事の仕方も荒れてくる。愉快な気分とはほど遠い句だが、誰にとっても、他人事ではあるまい。失業率が過去最高となった今日、このような思いで蜆汁をすすっている人もたくさんいるはずだ。いや、蜆汁をすすれれば、まだよいほうだろう。国民のほとんどを借金漬けにしてはばからぬ戦後の経済優先主義を、私は憎悪する。いまどきの若者の利己的な姿勢も、結局はここに起因している。(清水哲男)


April 1441999

 目刺やく恋のねた刃を胸に研ぎ

                           稲垣きくの

そらく、焼かれている目刺(めざし)はぼうぼうと燃えているのだろう。が、なぜ作者が目刺を燃やすほどに焼いているのかは、知るよしもない。知るよしはないが、句の勢いだけはわかるような気がする。嫉妬することを俗に「やく」というけれど、この場合の目刺には気の毒ながら(というよりも、誰が食べるのだろう。食べさせられる人には大いに気の毒ながら)、作者は「こんちくしょう」とばかりに、目刺にアタッている。この「恋のねた刃」は、相当に曰くありげだ。誰にでも嫉妬心はあり、誰にもなかなか解消法は見つからない。昔から落語などで「嫉妬心(りんき)は、こんがり焼くものだ」と言ってきた。ほどほどに、ということだ。庶民の智恵だ。が、そんなことは承知しているつもりでも、いざとなったら、そうはいかないのがヒトの常だろう。で、かくのごとくに、盛んに大煙を上げることになる。この研がれた「ねた刃」は、いったい誰に向けられるのか。なんだか、他人事ながらハラハラしてくる。でも、逆に言えば、作品的にそう思わせているにすぎない作者のしたたかな芸なのかもしれず、作った後で舌をぺろっと出している顔を想像すると、実にシャクにさわる。いっそ単純に、現代の「滑稽句」ととったほうがよいのかもしれない。(清水哲男)




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