都知事選。風雨強かるべし。濡れてまで行くことはないと、知事直接選挙制反対の私。




1999ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1141999

 日曜といふさみしさの紙風船

                           岡本 眸

曜日。のんびりできて、自分の時間がたくさんあって、なんとなく心楽しい日。一般的にはそうだろうが、だからこそ、時として「さみしさ」にとらわれてしまうことがある。家人が出払って、家中がしんと静まっていたりすると、故知れぬ寂寥感がわいてきたりする。そんなとき、作者は手元にあった紙風船をたわむれに打ち上げてみた。五色の風船はぽんと浮き上がり、二三度ついてはみたものの、さみしい気持ちの空白は埋まらない。華やかな色彩の風船だけに、余計に「さみしさ」が際だつような気がする……。作者はふと、この日曜日そのものが寂しい「紙風船」のようだと思った。ところで、「風船」とは実に美しいネーミングですね。風の船。名付けるときに「風」を採用することは誰にも思いつくところでしょうが、次に「船」を持ってきたのが凄い。凡庸な見立てでは、とても「船」のイメージとは結び付きません。いつの時代の、どんな詩人の発想なのでしょうか。そんなことを考えていたら、ひさしぶりに「紙風船」をついてみたくなりました。あまり大きい風船ではなく、少してのひらに余るくらいの大きさのものを。(清水哲男)


April 1041999

 囀を聞き分けてゐる鳥博士

                           大串 章

の鳴き声は、地鳴きと囀り(さえずり)とに分けられる。地鳴きは仲間との合図のためなどの普通の鳴き声であり、囀りは繁殖期の求愛や縄張り宣言のための声だ。したがって、囀りは春の季語。句は、山中での所産だろうか。騒々しいほどに鳴く鳥たちの声を、一つ一つ厳密に聞き分けている「鳥博士」がいる。「博士」は鳥類専門の研究者かもしれないが、ここでは「素人博士」と読んだほうが面白い。鳴き声の種類をとてつもなくたくさん知っている人で、そのことをちょっと自慢に思っている。「鳥博士」にかぎらず、こうした「博士」はどこにも必ずいるものだ。「花博士」であったり「魚博士」であったり、はたまた「酒博士」や「異性博士」等々。当ページの協力者である詩人の井川博年君などは、さしずめ「俳句博士」だろう。この「鳥博士」は、いまのところ大人しい。しかし、こういう人にみだりに質問を発してはいけない。発した途端に、人にもよるが、堰を切ったようにあれこれと説明をしはじめる人もいるからだ。そうなると、辟易させられることも多く、やはり「博士」はひとり静かにそっとしておくべきだということを思い知らされたりする。もとより、それもまた楽しからずや、ではあるのだけれど。俳誌「百鳥」(1999年4月号)所載。(清水哲男)


April 0941999

 片栗の一つの花の花盛り

                           高野素十

球のピッチャーの投法になぞらえれば、この句の技巧は「チェンジ・アップ」というやつだ。速球を投げるのとまったく同じフォームと勢いで、例えば物凄く緩(ゆる)い球を投げるのだ。素十というおっさんは、写生という速球投法を金科玉条としながらも、なかなかに喰えないボールを放ってくるので油断がならない。だって、そうではないか。片栗の花なんてものは、桜などとは違って、はなやかでもなんでもないし、その地味な花のたった一つをとらまえて「花盛り」もないものだ。よく言うよ。しかし、言われてみると、どんな花にも盛りはたしかにあるわけで、読者はみんな「うーむ」と唸ってしまう。プロのテクニックである。見事な技だ。こんな技を知ってから、片栗の花を見ると、なんだか違う魅力を覚えたりするから妙でもある。この片栗の花を、私の番組にブーケにして持ってきてくださった女性がいる。彼女は、八百屋で求めた食用の花を「もったいないので、花束にしてきた」という。東北産の一束が、およそ三百円弱。片栗の若葉は食用になるが、まさか八百屋で売っているとはねエ。これまた、田舎育ちの私には、強烈なチェンジ・アップを投げられた気分であった。見逃しの三振だった。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます