松坂大輔に大投手の素質。が、強気が裏目に出て、つるべ打ちに合う危険性も大だ。




1999ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0841999

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ

                           森 澄雄

蓮は、葉にさきがけて紅紫色の花を咲かせる。白い花をつける白れん(「白木蓮」とも)も花が先だが、同属にして別種。どちらも「葉がでて」きたら、はなやかさとは縁が切れる。ところで「立てば芍薬、すわれば牡丹」の昔から、女性を花に例えることはよく行われてきた。植物学の牧野富太郎博士は「花は単なる生殖器です」とあからさまな「学問的真実」を書きつけているけれど、もとより古人の言葉には、そういう意味合いは含まれていない。私たちは、女性の姿や立ち居振る舞いに、直感としての「花」の外観的イメージを当て嵌めてきただけである。が、この句のように、正面切って花季の過ぎた植物の風情を当て嵌めるということは、あまり行われてこなかった。例えば「姥桜(うばざくら)」のような一種の陰口はあったにせよ、この句はそういうこととも違うし、珍しい作品だ。見知らぬ女性のことを言ったのではなく、相手が妻だから言えたのだろう……。さらに言えば、愛妻家だからこそ可能な表現だったとも。句は、たしかに女盛りを過ぎた妻をいとおしいと詠んでいる。「頃ほひ」とぼかして首をかしげているようなところに、作者の感情が込められている。しかし、この見立てを夫人は気に入っただろうか。他人がいちいち詮索することでもないが、妙にアトを引く一句だ。このとき、作者は四十代。『花眼』(1969)所収。(清水哲男)


April 0741999

 春泥にテレホンカード落しけり

                           神谷博子

藤園「おーいお茶」新俳句大賞作(一般の部B・40歳以上65歳未満・応募総数六八九八九句・1998)。茶と俳句というと古風なイメージに写りやすいが、この俳句コンクールは「思ったことを季語や定型にこだわることなく、五七五のリズムにのせて詠めばよい」という至極自由な条件から、若者にも人気を博している。そういうわけで、この句も技巧的な上手下手とは関係のないところでの入賞だ。なによりも、素材の現代性が評価されたのだろう。入選作を集めた冊子「自由語り」に、作者の弁が掲載されている。「買い物の途中、ちょっと家に電話しようと思った時、テレホンカードを、足元の泥水の中に落してしまいました。アスファルトばかりの現代で、ぬかるみこそ見かけなくなりましたが、汚れたカードを拾おうとしながら、ふと『これも春泥(しゅんでい)かな』と思いました」。面白い着眼だと思う。要するに、雨上がりか何かで汚れた鋪道のちょっとした泥水に「春泥」を感じたというわけだ。うーむ、なるほど……。でも、残念なことに、作者のこの微妙な感覚を句は一切伝えていない。選者たちも、本物の「ぬかるみ」と受け取っている。私としては、作者の弁そのものが作品化されていたら、どんなに素敵だったろうかと思い、あらためて句作りの難しさを考えさせられた。(清水哲男)


April 0641999

 あたらしい帽子が太くて枝張る桜

                           穴井 太

カピカの一年生に出会っての所見と思われる。最近は違うかもしれないが、昔の男の子はみんな入学時に「あたらしい帽子」をかぶった。私も、桜の記章のついた学帽をかぶった。少し大きめの帽子だった。子供の成長は早いので、親はそれを見越して大きめの帽子を買うのである。世間の所見はそれを単に愛らしい姿としてとらえるのが常だけれど、作者は違っている。その大きな学帽を、たくましい「太くて枝張る桜」になぞらえている。実際、大きめの帽子をかぶると、何か巨大なものを頭に乗せたような気持ちになる。ついでに、ちょっぴり偉くなったような気もしたものだ。そこらあたりの心理を、作者はずばりと突いている。と同時に、帽子の主の将来を期待する優しい感情も込めている。このとき「枝張る桜」とは、ソメイヨシノではないだろう。ソメイヨシノにはひょろひょろした樹が多く、平均的な樹齢も四十年ほどと短い(とは、友人の話)。花の美しさだけを求めて交配させた結果、たくましさが失われたのだ。私に品種名はわからないが、もっと幹の色が黒い桜で、いかにも野趣溢れる樹木を見かける。句の桜はそれだろう。そんな「桜樹のようにあれよ」と、作者は一年生を激励しているようだ。『鶏と鳩と夕焼と』(1963)所収。(清水哲男)




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