娘の友人二人来宅。部屋を真っ暗にしてビデオを見た後、パソコン。「時代」である。




1999ソスN4ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0441999

 鴬の茶畠に鳴く四月かな

                           船 山

ことにもって呑気な句だ。楽しい句だ。ついでに言わせてもらえば、トルネード的に下手な句(笑)でもある。しかし、こんな句がひょいと出てくるから、俳句を読むのは止められない。茶摘み前の茶畠の近くで、鴬がきれいな声で鳴いている。歩いていても眠くなるような、そんな午後のひとときの光景だ。学生時代に、茶どころの宇治で下宿住まいをしたことがあるので、この雰囲気は日常のものだった。ただ、こんな句の良さなどは絶対に認めようとしない「俳句好き」にして、かつ生意気な政治青年であった。だから、いまさらのように、こういう句を面白いと思うようになった自分にびっくりしてもいる。この句は、電話機の横にメモを取るために置いてある「デスク・ダイアリー」の欄外に印刷されていた。昔は、どんな事務所にも置いてあったバインダー式の日めくりカレンダーである。今日が旧暦の何日であるとか、思わずも顔が赤くなるような格言であるとかが、とにかくごちゃごちゃと書いてあるのだけれど、あれらを毎日ちゃんと読む人はいるのだろうか。私は、たまにしか読まない。(清水哲男)


April 0341999

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)


April 0241999

 花の昼動く歩道を大股に

                           佐々木峻

者は「動く歩道」を大股で突き進んでいるのだから、とにかく忙しいのだ。空港だろうか。たぶん、遠くても窓外に花は見えているのだろうけれど、実際「花」どころではないのである。何が何でも、先を急がなくてはならない。今日あたりも、こんな気持ちで「動く歩道」を大股ですっ飛ぶように歩いているサラリーマンは、全国のあちこちにいるだろう。切なくも、逞しい感覚と言うべきか。ただし、作者には別に「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句があり、「桜花」には執着がなさそうなので読者としては少し気が楽だ。けれども、この忙しさの渦中にある感覚だけはよくわかる。サラリーマン編集者の頃、ファクシミリなどなかったから、とにかく短文一本カット一枚も手渡しだったので、締切日前後は多忙を極めた。なかには関西在住の小松左京さんの原稿のように、貨物便で羽田空港に送られてくるものもあった。社への配達を待っていたのでは間に合わないので、毎月、空港まで取りに行った。印刷所も夜通し仕事をしており、「今日はもう遅いから」という逃げ口上は通用しなかった時代だ。……等々、この句を読んで思い出したことがたくさんあった。『まどひ』(1998)所収。(清水哲男)




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