嘘をついてもよい日と先生に教わり、我等悪童は歓喜したが、何の嘘もつけなかった。




1999ソスN4ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0141999

 四月馬鹿病めど喰はねど痩せられず

                           加藤知世子

月馬鹿の句には、自嘲句が多い。自分で自分を馬鹿にしている分には、差し障りがないからである。この句も、典型的なそれだ。「病まねど喰えど太れない」私としては、逆に少々身につまされる句ではあるけれども、見つけた瞬間には大いに笑わせてもらった。作者の人柄がよくないと、なかなかこうは詠めないだろう。楽しい句だ。このように自分で自分を笑い飛ばせる資質は、俳人にかぎらず表現者一般にとって、とても大切なものだと思う。それだけ深く、自分を客観視できるからだ。その意味で、この国の文芸や芸術作品には、とかく二枚目のまなざしで表現されたものが多くて辟易させられることがある。ときに自己陶酔的な表現も悪くはないが、度が過ぎると嫌味になってしまう。同様に、美男美女につまらない人物が多いのは、他人の好意的な視線だけを栄養にして育ってきているからで、自己否定ホルモンの分泌が足らないせいだろう。他人は馬鹿にできても、ついに自分を馬鹿にすることができない……。せっかく生まれてきたというのに、まことに惜しいことではないか。バイアグラも結構なれど、こうした「馬鹿」につける薬も発明してほしい。(清水哲男)


March 3131999

 鞦韆の月に散じぬ同窓会

                           芝不器男

韆は一般的に「しゅうせん」と読むが、作者は「ふらここ」と仮名を振っている。「ぶらんこ」のことであり、春の季語だ。同窓会の別れ際には、甘酸っぱい感傷が伴う。はじめのうちはともかく、会が果てるころには、みんながすっかり昔の顔に戻ってしまう。しかし、去りがたい思いとともに外に出ると、昔の顔がすでに幻であることに、否応なく気づかされる。感傷の根は、ここにある。句の場合は、小学校の同窓会だろう。やわらかい月明の下に、みんなで遊んだぶらんこが、それこそ幻のように目に写った。ふざけて、ちょっと乗ってみたりした級友もいただろう。それも、束の間。やがてみんなは、それぞれの道へと別れて帰っていく。ぶらんこ一つを、ぽつんとそこに残して……。また、いつの日にか、こうしてお互いに元気で会えるだろうか。作者の芝不器男は、昭和五年(1930)に二十七歳にも満たない若さで亡くなった。その短い生涯を思うとき、余計に句の純粋な感傷が読者の胸にと迫ってくる。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)


March 3031999

 ロゼワイン栄螺の腸のほろにがさ

                           佐々木幸子

手な句ではない。が、ワインと栄螺(さざえ)との取り合わせに興味を魅かれた。私はワインが苦手なので、早速、ワイン好きの友人に取材した。「ロゼワインと栄螺は、味覚的に合うのかなア」。「試したことはないけれど、別に突飛な取り合わせとは思わないね」。「でも、テーブルの上での見た目がよくないな」。「そんなこと、本人が機嫌良く飲んだり食ったりしてるんだから、どうでもよろしい」。…てなわけで、この取り合わせは「まあまあ」だろうということに落ち着いた。はじめてパリに行ったときに、みんな山盛りのカラスガイを肴にワインをやっていたのに感心した覚えがあるので、基本的にはワインと貝類とは合うのだろう。ワイン好きの読者は、お試しあれ。口直しに(作者にはまことに失礼ながら)、とにかく「栄螺」といえばこの句だよというところを、見つくろって紹介しておこう。百合山羽公の「己煮る壷を立てたる栄螺かな」と加倉井秋をの「どう置いても栄螺の殻は安定す」だ。味覚よりも、作者は栄螺の存在そのものに哀しみを感じている。こういう句のほうに魅力を覚えるのは、私がもはや古い人間のせいなのだろうか。「味の味」(4月号・1999)所載。(清水哲男)




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