創設とほぼ同時に入会したniftyを退会。ゴチャゴチャし過ぎて使いにくくなった。




1999ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3131999

 鞦韆の月に散じぬ同窓会

                           芝不器男

韆は一般的に「しゅうせん」と読むが、作者は「ふらここ」と仮名を振っている。「ぶらんこ」のことであり、春の季語だ。同窓会の別れ際には、甘酸っぱい感傷が伴う。はじめのうちはともかく、会が果てるころには、みんながすっかり昔の顔に戻ってしまう。しかし、去りがたい思いとともに外に出ると、昔の顔がすでに幻であることに、否応なく気づかされる。感傷の根は、ここにある。句の場合は、小学校の同窓会だろう。やわらかい月明の下に、みんなで遊んだぶらんこが、それこそ幻のように目に写った。ふざけて、ちょっと乗ってみたりした級友もいただろう。それも、束の間。やがてみんなは、それぞれの道へと別れて帰っていく。ぶらんこ一つを、ぽつんとそこに残して……。また、いつの日にか、こうしてお互いに元気で会えるだろうか。作者の芝不器男は、昭和五年(1930)に二十七歳にも満たない若さで亡くなった。その短い生涯を思うとき、余計に句の純粋な感傷が読者の胸にと迫ってくる。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)


March 3031999

 ロゼワイン栄螺の腸のほろにがさ

                           佐々木幸子

手な句ではない。が、ワインと栄螺(さざえ)との取り合わせに興味を魅かれた。私はワインが苦手なので、早速、ワイン好きの友人に取材した。「ロゼワインと栄螺は、味覚的に合うのかなア」。「試したことはないけれど、別に突飛な取り合わせとは思わないね」。「でも、テーブルの上での見た目がよくないな」。「そんなこと、本人が機嫌良く飲んだり食ったりしてるんだから、どうでもよろしい」。…てなわけで、この取り合わせは「まあまあ」だろうということに落ち着いた。はじめてパリに行ったときに、みんな山盛りのカラスガイを肴にワインをやっていたのに感心した覚えがあるので、基本的にはワインと貝類とは合うのだろう。ワイン好きの読者は、お試しあれ。口直しに(作者にはまことに失礼ながら)、とにかく「栄螺」といえばこの句だよというところを、見つくろって紹介しておこう。百合山羽公の「己煮る壷を立てたる栄螺かな」と加倉井秋をの「どう置いても栄螺の殻は安定す」だ。味覚よりも、作者は栄螺の存在そのものに哀しみを感じている。こういう句のほうに魅力を覚えるのは、私がもはや古い人間のせいなのだろうか。「味の味」(4月号・1999)所載。(清水哲男)


March 2931999

 朧にて寝ることさへやなつかしき

                           森 澄雄

の夜。寒くもなく暑くもなく、心地好い体感とともに、作者の心持ちも朧(おぼろ)にかすんでいる。世に「春宵一刻価千金」と言うが、まさに故なき一種の至福の状態にある。春宵の雰囲気に、いわば酔っている。そして、そろそろ寝るとするかと立ち上がったときに、ふと、就寝という平凡な日常的行為がひどく懐しく思えたというのである。それこそ「故なき」心の動きではあるが、しかし、読者をすうっと納得させてしまう力が、この句にはある。「そんな馬鹿な」などとは、誰も思わないだろう。力の根拠は、おそらく「寝ることさへや」の「や」にあるのではないかと読んだ。これが例えば「寝ることさへも」と「も」であったとしたら、叙述としてはわかりやすいが、句の力は甘くなる。きっぱりと「や」と強調することで、「も」の気分をも包含しての懐しさが立ちこめるということになった。もうひとつ、作者がこのとき還暦を少し過ぎていたという年令的な背景も「力」となっているだろう。少年少女期が懐しいという人は、意外にも若い人に多い。年寄りはむしろ昨日今日をいつくしむので、懐しむための世代的な共通の分母を、若い人が想像するほどには持ち合わせていないということだ。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)




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