「or」を「ne」に。接続業者の対応はバラバラだ。4月1日以降、混乱は必至と見る。




1999ソスN3ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2631999

 蝿生れ早や遁走の翅使ふ

                           秋元不死男

近はとんとお目にかからなくなったが、どこの家庭にも「蝿叩き」があったころの句。越冬した大人の蝿はもちろん、春に生まれる子供の蝿も、容赦なく打たれる。不衛生の権化ないしは象徴として、昔から蝿は打たれつづけてきた。あまりにも可哀相だと、一茶が例の有名な句を作ったほどだ。したがって、生まれたばかりの赤ちゃん蝿も、句のようにはやくも遁走の翅(はね)を使いはじめているという見立てである。作者の弁。「一茶にしろ、鬼城にしろ、どちらも貧乏で……好んで小動物を詠んだのは、何か貧乏とかかわりがあるのかも知れない。わけて一茶には蝿の句が多い。私も子供のころ貧乏な生活の中で育った。蝿の多い路地もあったろうし、従って家の中まで飛びまわる蝿もめずらしくなく、敵視する気持もそれほど強くなかった」。句は、生まれてすぐに人間から「敵視」される運命と定まった赤ちゃん蝿に、同情もし、哀れとも感じている。戦前の「俳句事件」で二年間の獄中生活を送った作者の心情が、子供時代の貧乏生活にプラスされて、いわれなき敵視を受けておびえる蝿の仕草に寄り添っている。『瘤』(1950)所収。(清水哲男)


March 2531999

 紅枝垂雨にまかせて紅流す

                           鍵和田釉子

枝垂(べにしだれ)は、淡紅色の花が咲く枝垂桜のこと。京都・平安神宮神苑の紅枝垂桜は有名だ。長く伸びて柳のように垂れた枝にたくさんの花がついた姿は、それだけでも豪奢の感じを受ける。句では、その上に、春の柔らかい雨が、次から次へとかかってはすべり落ちている。豪奢も豪奢、この世のものとは思われぬほどの贅沢な美しさだ。花に嵐は迷惑だが、花に雨の情緒は纏綿(てんめん)として息をのませる。つい最近、東京は小石川後楽園で、このような雨の枝垂を見たばかりなので、余計に心にしみる句となった。枝垂桜で思いだした句に、大野林火の「月光裡しだれてさくらけぶらへり」という名句がある。しかし、このような月と桜の取り合わせは昔からよくあるけれど、枝垂桜に雨を流してみせた句は珍しいのではなかろうか。枝垂桜の生態によくかなった描写で、少しも力んだり無理をしていないところが素晴らしい。子供の頃に、花づくりに熱中したことがあるという作者ならではの観察眼によった堂々の傑作と言える。『花詞』(ふらんす堂文庫・1996)所収。(清水哲男)

[お断り]作者名の「ゆうこ」が「釉子」となっていますが、正しくは「のぎへん」に「由」という字です。ただし、この漢字は現在のワープロにはありません。作字をしてグラフィック化することも考えたのですが、当サイトのシステム上の問題が生じるため、断念しました。苦肉の策でこのように表記しましたが、誤記は誤記です。お詫びいたします。指摘してくださった方、ありがとうございました。それにしても、何かよい方法はないものでしょうか。この問題を解決しないと、鍵和田さんの作品は取り上げられなくなりますので。


March 2431999

 桜湯に眼もとがうるむ仮の世や

                           佐藤鬼房

湯の屋号にもある「桜湯」の定義。「八重桜の半開きの花や蕾を塩漬けにしたもの。茶碗に入れて熱湯を注ぐと、弁はほぐれて花は開いたようになり、香気がほのぼのと立つ。これを桜湯といい、祝いの席などに用いる」(角川書店編『合本・俳句歳時記』第三版)。早い話が、結婚披露宴で出てくるおなじみの飲み物だ。作者もかしこまっていただき、いささか眼もともうるんではきたのだけれど、ふと気をとりなおしたところが句の眼目だ。祝い事に、しょせんは「仮の世」の、はかない演出でしかないという哀しみを感じてしまった……。このような感覚を持つ人は、一般的に変人扱いされそうである。が、いうところのハレの場には、必ずケと響き会うからこその「はれやかさ」があるのであって、そのあたりを知らぬ顔で通しているほうが、実は変なのではなかろうか。多くの人は、社交術として割り切っているが、この「術」ほどに割り切れないものもない。冠婚葬祭への古くさい権力の介入は、相変らずだ。そんな風潮に、べーっと舌を出してみせた滑稽句でもあると、私には読めた。(清水哲男)




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