迫害阻止とNATOが空爆。祖国防衛とユーゴの抗戦。笑うのは戦争屋と死の商人だ。




1999N325句(前日までの二句を含む)

March 2531999

 紅枝垂雨にまかせて紅流す

                           鍵和田釉子

枝垂(べにしだれ)は、淡紅色の花が咲く枝垂桜のこと。京都・平安神宮神苑の紅枝垂桜は有名だ。長く伸びて柳のように垂れた枝にたくさんの花がついた姿は、それだけでも豪奢の感じを受ける。句では、その上に、春の柔らかい雨が、次から次へとかかってはすべり落ちている。豪奢も豪奢、この世のものとは思われぬほどの贅沢な美しさだ。花に嵐は迷惑だが、花に雨の情緒は纏綿(てんめん)として息をのませる。つい最近、東京は小石川後楽園で、このような雨の枝垂を見たばかりなので、余計に心にしみる句となった。枝垂桜で思いだした句に、大野林火の「月光裡しだれてさくらけぶらへり」という名句がある。しかし、このような月と桜の取り合わせは昔からよくあるけれど、枝垂桜に雨を流してみせた句は珍しいのではなかろうか。枝垂桜の生態によくかなった描写で、少しも力んだり無理をしていないところが素晴らしい。子供の頃に、花づくりに熱中したことがあるという作者ならではの観察眼によった堂々の傑作と言える。『花詞』(ふらんす堂文庫・1996)所収。(清水哲男)

[お断り]作者名の「ゆうこ」が「釉子」となっていますが、正しくは「のぎへん」に「由」という字です。ただし、この漢字は現在のワープロにはありません。作字をしてグラフィック化することも考えたのですが、当サイトのシステム上の問題が生じるため、断念しました。苦肉の策でこのように表記しましたが、誤記は誤記です。お詫びいたします。指摘してくださった方、ありがとうございました。それにしても、何かよい方法はないものでしょうか。この問題を解決しないと、鍵和田さんの作品は取り上げられなくなりますので。


March 2431999

 桜湯に眼もとがうるむ仮の世や

                           佐藤鬼房

湯の屋号にもある「桜湯」の定義。「八重桜の半開きの花や蕾を塩漬けにしたもの。茶碗に入れて熱湯を注ぐと、弁はほぐれて花は開いたようになり、香気がほのぼのと立つ。これを桜湯といい、祝いの席などに用いる」(角川書店編『合本・俳句歳時記』第三版)。早い話が、結婚披露宴で出てくるおなじみの飲み物だ。作者もかしこまっていただき、いささか眼もともうるんではきたのだけれど、ふと気をとりなおしたところが句の眼目だ。祝い事に、しょせんは「仮の世」の、はかない演出でしかないという哀しみを感じてしまった……。このような感覚を持つ人は、一般的に変人扱いされそうである。が、いうところのハレの場には、必ずケと響き会うからこその「はれやかさ」があるのであって、そのあたりを知らぬ顔で通しているほうが、実は変なのではなかろうか。多くの人は、社交術として割り切っているが、この「術」ほどに割り切れないものもない。冠婚葬祭への古くさい権力の介入は、相変らずだ。そんな風潮に、べーっと舌を出してみせた滑稽句でもあると、私には読めた。(清水哲男)


March 2331999

 赤き馬車峠で荷物捨てにけり

                           高屋窓秋

季の句だが、私には春が感じられる。「赤き馬車」と「峠」との取り合わせから来ているのだろう。イメージは字句のとおりであるが、何を言いたい句かということになると、正直に言って解釈は難しい。私なりのそれは、作者の人生をもからめた人間一般の自棄の心を詠んだ句。そんなふうに、思われる。「赤き馬車」が里から峠まで積んできたせっかくの荷物を「捨てにけり」なのだから、事態を人生途上での自己放棄と解釈したのだ。この自己放棄も、みずからが積極的に志向したわけではないのに、そんな光景が遠くに(峠に)見えたとき、理由も無しになぜかストンと納得できたということである。老齢の幻想であり、しかし、まごうかたなき現実でもあると思う。こいつを肯定できるか、それともイヤだと思うか。トシの取り方は、句よりもはるかに難しい。高屋窓秋氏は、今年の正月に亡くなられた。新聞で訃報に接したとき、アッと声をあげた。掲句が収められている句集『花の悲歌』(1993)を、なぜか一面識もない私にも送っていただき、恐縮しながらも、私はお礼の手紙すら差し上げないでいたことを気にしていたからであった。きちんと読んでからと思っている間に、六年もの月日が経っていたことに愕然とした。この「荷物」を、やはり私も近い将来のいつの日にか、あっけらかんと峠に捨ててしまうのだろうか。(清水哲男)




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