フランスのメディアのアンケート好きは有名だ。負けず劣らずが最近の「東京新聞」。




1999ソスN3ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2431999

 桜湯に眼もとがうるむ仮の世や

                           佐藤鬼房

湯の屋号にもある「桜湯」の定義。「八重桜の半開きの花や蕾を塩漬けにしたもの。茶碗に入れて熱湯を注ぐと、弁はほぐれて花は開いたようになり、香気がほのぼのと立つ。これを桜湯といい、祝いの席などに用いる」(角川書店編『合本・俳句歳時記』第三版)。早い話が、結婚披露宴で出てくるおなじみの飲み物だ。作者もかしこまっていただき、いささか眼もともうるんではきたのだけれど、ふと気をとりなおしたところが句の眼目だ。祝い事に、しょせんは「仮の世」の、はかない演出でしかないという哀しみを感じてしまった……。このような感覚を持つ人は、一般的に変人扱いされそうである。が、いうところのハレの場には、必ずケと響き会うからこその「はれやかさ」があるのであって、そのあたりを知らぬ顔で通しているほうが、実は変なのではなかろうか。多くの人は、社交術として割り切っているが、この「術」ほどに割り切れないものもない。冠婚葬祭への古くさい権力の介入は、相変らずだ。そんな風潮に、べーっと舌を出してみせた滑稽句でもあると、私には読めた。(清水哲男)


March 2331999

 赤き馬車峠で荷物捨てにけり

                           高屋窓秋

季の句だが、私には春が感じられる。「赤き馬車」と「峠」との取り合わせから来ているのだろう。イメージは字句のとおりであるが、何を言いたい句かということになると、正直に言って解釈は難しい。私なりのそれは、作者の人生をもからめた人間一般の自棄の心を詠んだ句。そんなふうに、思われる。「赤き馬車」が里から峠まで積んできたせっかくの荷物を「捨てにけり」なのだから、事態を人生途上での自己放棄と解釈したのだ。この自己放棄も、みずからが積極的に志向したわけではないのに、そんな光景が遠くに(峠に)見えたとき、理由も無しになぜかストンと納得できたということである。老齢の幻想であり、しかし、まごうかたなき現実でもあると思う。こいつを肯定できるか、それともイヤだと思うか。トシの取り方は、句よりもはるかに難しい。高屋窓秋氏は、今年の正月に亡くなられた。新聞で訃報に接したとき、アッと声をあげた。掲句が収められている句集『花の悲歌』(1993)を、なぜか一面識もない私にも送っていただき、恐縮しながらも、私はお礼の手紙すら差し上げないでいたことを気にしていたからであった。きちんと読んでからと思っている間に、六年もの月日が経っていたことに愕然とした。この「荷物」を、やはり私も近い将来のいつの日にか、あっけらかんと峠に捨ててしまうのだろうか。(清水哲男)


March 2231999

 たんぽぽの絮吹いてをる車掌かな

                           奥坂まや

間の駅。単線だと、長い時間停車して擦れ違う列車を待つ。少し疲れた客はホームに降りて、背伸びなんかをしたりする。ベテランの車掌はホームの端のたんぽぽ(蒲公英)を無造作に摘んで、いかにも所在なげに絮(わた)をふっと吹いている。その子供っぽい仕草に、作者は好感を覚えつつ、春ののどかさを味わっている。私などにも、とても懐しい光景だ。ところで一点、私は「吹いてをる」という文語調にひっかかった。作者は現代の人なのに、なぜ「吹いている」ではいけないのだろうか。ひっかかったのは、外山滋比古『俳句的』(みすず書房・1998)を読んだ影響もある。外山氏の一節。「俳句は文語によることになっている。どうして文語でなくてはいけないのか、と反問する野暮もない。口語に比べて文語の方が何となく、すぐれているように感じる向きがすくなくない」。句の場合、べつに作者はエラそうにしているわけではないが、多少は「をる」のほうが「すぐれている」と思ったのかもしれない。思ったとすれば、根拠は文語表現のほうが句のすわりがよいという点にあるだろう。すなわち、伝統によりかかっての安心感があるということ。とかく口語の腰はふらつく。が、ふらつく口語と取っ組み合わない文芸ジャンルに、未来は期待できない。俳誌「鷹」(1998年6月号)所載。(清水哲男)




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