大串章「百鳥」五周年。「百鳥や五彩に枝を分けて春」とひねった。挨拶句は苦手だ。




1999ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2131999

 なほ煙る炭窯一つ初ざくら

                           亀井絲游

桜(「初花」とも)は、その年にはじめて咲いた桜のことを言うが、厳密な意味はない。最初に目にとまった桜花程度の意味が本義だ。植物学的な開花順序も関係ないので、桜の種類はなんであっても構わない。ただ、特筆すべきは「桜」や「花」などと同格に、歳時記では「初桜」にも季語の主項目が与えられているというあたりで、このことは昔から、如何に桜の開花が多くの人々に待たれていたかを証明している。現代でも、気象庁がしゃかりきになって開花予想を立てるのは、ご承知のとおり。この句の場合は「初桜」本義のように、いつ咲いたのかは知らねども、なにげなしに山を見上げたら、炭焼窯の煙一筋のかたわらに咲いていたという情景である。炭焼きは主として冬場の仕事だから、春になっても煙をあげている窯はかなり珍しい。その珍しい煙をいぶかしく眺めた作者の目の流れに、すうっと桜の花が入ってきた。ああ、春が来たんだなあ……という叙情。こんな光景に出くわしたら、私はカメラを向ける。が、カメラなど無関係な生活者の目でないと、こういう句は作れまい。同じ初桜でもたとえば金子潮に「初花の雨風窓打つ決算期」という苦い句があり、サラリーマン諸氏には、この句のほうが身近だろう。でも、上掲の句のほうを好ましいと思うだろう。(清水哲男)


March 2031999

 壁の貼繪は天皇一家芽独活煮る

                           松村蒼石

書に「長野に初めて風光(清水風光・俳人)を訪ふ」とあるから、自宅の景ではない。招かれた宅の壁に天皇一家の写真が貼ってあり、台所ではもてなしのための芽独活が煮られている。都会の喧騒を遠く離れた田舎家の静かなたたずまいが、好もしい。戦前の家庭の壁には、よく雑誌の付録として新年号などについてきた天皇や天皇夫妻の写真(御真影)が貼ってあったものだが、句は戦後も十数年を経た時期のものだから、「天皇誕生日」か何かのときの新聞写真の切り抜きかもしれない。作者はその写真に単に「ほお…」と思っただけで、写真を貼った主人の気持ちまでをも忖度しているわけではない。ネコにもシャクシにも、とにかく怒涛のようなアメリカ製民主主義が押し寄せていた当時にあって、たしかに壁の天皇写真は珍しくはあったろう。が、蒼石は否定もしていなければ、肯定もしていない。時代の潮流に翻弄されている都会との差を、この一枚の写真で明晰にしただけなのである。戦前から時間がとまったような地方のつつましい雰囲気を、写真という小道具で巧みに演出してみせた腕の冴え。『春霰』(1967)所収。(清水哲男)


March 1931999

 ハンドバツク寄せ集めあり春の芝

                           高浜虚子

え書きに「関西夏草会。宝塚ホテル」とあるから、ホテルの庭でのスケッチだ。萌え初めた若芝の庭園に、たくさんのハンドバッグ(虚子は「バツグ」ではなく「バツク」と表記している)が寄せ集められている。団体で宝塚見物に来ている女性客たちが、記念写真の撮影か何かのために置いたものが、一箇所に取りまとめられているのだろう。春と女性。いかにもこの季節にふさわしい心なごむ取り合わせだ。いくつかのハンドバッグが、春の光を反射して目にまぶしい。現代にも十分に通用する句景であるが、句作年月は昭和十八年(1943)の三月である。つまり、敗戦の二年前、戦争中なのだ。前年の三月には、東京で初の空襲警報が発令されてはいるが、嵐の前の静けさとでもいおうか、内地の庶民には、このようにまだまだ日本の春を楽しむ余裕のあったことがわかる。ただし、この句が作られたときの宝塚雪組公演の演目は「撃ちてし止まむ」「桃太郎」「みちのくの歌」と、戦時色の濃いものではあった(『宝塚歌劇の60年』宝塚歌劇団出版部・1974)。そして、虚子が信州小諸に疎開したのは、翌年の九月四日のこと。「風多き小諸の春は住み憂かり」などと、不意の田舎暮らしに不平を漏らしたりしている。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)




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