東京も冬に逆戻り。地元では中学の卒業式。「あの日は寒かったねえ」と、思い出に。




1999ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2031999

 壁の貼繪は天皇一家芽独活煮る

                           松村蒼石

書に「長野に初めて風光(清水風光・俳人)を訪ふ」とあるから、自宅の景ではない。招かれた宅の壁に天皇一家の写真が貼ってあり、台所ではもてなしのための芽独活が煮られている。都会の喧騒を遠く離れた田舎家の静かなたたずまいが、好もしい。戦前の家庭の壁には、よく雑誌の付録として新年号などについてきた天皇や天皇夫妻の写真(御真影)が貼ってあったものだが、句は戦後も十数年を経た時期のものだから、「天皇誕生日」か何かのときの新聞写真の切り抜きかもしれない。作者はその写真に単に「ほお…」と思っただけで、写真を貼った主人の気持ちまでをも忖度しているわけではない。ネコにもシャクシにも、とにかく怒涛のようなアメリカ製民主主義が押し寄せていた当時にあって、たしかに壁の天皇写真は珍しくはあったろう。が、蒼石は否定もしていなければ、肯定もしていない。時代の潮流に翻弄されている都会との差を、この一枚の写真で明晰にしただけなのである。戦前から時間がとまったような地方のつつましい雰囲気を、写真という小道具で巧みに演出してみせた腕の冴え。『春霰』(1967)所収。(清水哲男)


March 1931999

 ハンドバツク寄せ集めあり春の芝

                           高浜虚子

え書きに「関西夏草会。宝塚ホテル」とあるから、ホテルの庭でのスケッチだ。萌え初めた若芝の庭園に、たくさんのハンドバッグ(虚子は「バツグ」ではなく「バツク」と表記している)が寄せ集められている。団体で宝塚見物に来ている女性客たちが、記念写真の撮影か何かのために置いたものが、一箇所に取りまとめられているのだろう。春と女性。いかにもこの季節にふさわしい心なごむ取り合わせだ。いくつかのハンドバッグが、春の光を反射して目にまぶしい。現代にも十分に通用する句景であるが、句作年月は昭和十八年(1943)の三月である。つまり、敗戦の二年前、戦争中なのだ。前年の三月には、東京で初の空襲警報が発令されてはいるが、嵐の前の静けさとでもいおうか、内地の庶民には、このようにまだまだ日本の春を楽しむ余裕のあったことがわかる。ただし、この句が作られたときの宝塚雪組公演の演目は「撃ちてし止まむ」「桃太郎」「みちのくの歌」と、戦時色の濃いものではあった(『宝塚歌劇の60年』宝塚歌劇団出版部・1974)。そして、虚子が信州小諸に疎開したのは、翌年の九月四日のこと。「風多き小諸の春は住み憂かり」などと、不意の田舎暮らしに不平を漏らしたりしている。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


March 1831999

 三田といへば慶応義塾春の星

                           深川正一郎

応の出身者なら、それも母校愛のある人にとっては、大満足の句だろう。とにかく、格好がよろしい。一読、おぼろにうるんだ春の星のまたたきの下で、愛する母校を誇らしく回想している句だと思えるからだ。が、作者は、実は慶応義塾とは何の関係もない人だった。最終学歴は、四国伊予は川之江二州学舎。大正十年にここを卒業し、兵役を経て菊池寛の文藝春秋社に入社すべく上京して、雑用をしながら小説を書いたりしていた。すなわち、この句は、そんなふうにして東京に生活していた若者の慶応義塾への「憧れ」を詠んだものだ。「野球といえばジャイアンツ」と言うに近い心持ちである。もう故人となってしまったが、松竹の助監督だった私の友人が、上海ロケに出かけたときのエピソードがある。夕刻、仕事も終わって近所の公園を散歩していたら、人品骨柄いやしからぬ中国人の紳士が近寄ってきて、話しかけてきたそうだ。「日本の方とお見受けしましたが、最近の『三田』はどうなっておりますでしょうか」。紳士は「三田といへば慶応義塾」の時代の学生だったという。古き良き時代、春の星もさぞや美しかったことだろう。『正一郎句集』(1958)所収。(清水哲男)




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