都知事直接選挙は不必要。区市町村合議選出でよろしい。45億円もの税金が浮くぞ。




1999ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1231999

 春闘の闇ゆさぶりぬ装甲車

                           小宅容義

語は「春闘」。そろそろ、この季語にも注釈が必要になってきたかと思われる。「春季に行われる労働組合の要求闘争のこと」だ。ほとんどの会社が四月からの新年度に賃金引き上げなどを行うので、労使交渉は春三月がピークとなり、スケジュール的に長い間「春闘」として定着してきた。装甲車とはまた物騒だけれど、つい三十年ほど前までは、問題がこじれそうな会社やストライキ中の会社の周辺に警察の機動隊が出動するシーンは、べつに珍しいことでもなかった。「闇ゆさぶりぬ」そのままに、装甲車がひたひたとにじりよってくる雰囲気には、不気味なものがあった。気がつくと、装甲車の周辺には機動隊員の沈黙の渦があり、自称左翼少年であった私には、こういう句は若き日の闇を思い起こさせられてギクリとする。政治的に目覚めた高校生や大学生と会社の労働組合とが統一戦線を組むのは普通のことだったし、春闘の応援に左翼(とは限らなかったけれど)少年や少女が混ざっていても、誰も特別には何とも思わなかった。そんな時代の句だ。失礼ながら、作者のなかでは上手な句ではない。でも、この句全体が「季語」のように機能した時代の記念として掲げておく。『立木集』(1974)所収。(清水哲男)


March 1131999

 雲雀とほし木の墓の泰司はひとり

                           阿部完市

解派の雄といわれる阿部完市の、これは比較的わかりやすい句だ。空高く朗らかに囀る雲雀(ひばり)の声を聞きながら、作者は粗末な木の墓で眠っている泰司のことを思っている。死者を尊ぶ常識からすると、泰司は雲雀とともに天にあらねばならないのだが、作者にはどうしてもそのようには思えず、泰司はやはり生きていた時と同じに地上の人でありつづけている。「泰司よ」と語りかけるような作者の優しさが胸にしみる。「泰司」が誰であるかは、作者以外には知りえない。まぎれもない固有名詞ではあるのだが、読者にはわからないのだ。しかしながら、この「泰司」は、三好達治の有名な雪の詩に出てくる「太郎」や「次郎」とは違う。同じ固有名詞でも、詩人の「太郎」や「次郎」は役所などの書類のサンプルに出てくるようなそれであり、たとえば「泰司」との入れ替えが可能な名前として使われている。ところが、俳人の「泰司」はそうではない。入れ替えは不可能なのだ。作者しか知らない人物ではあるが、この入れ替えの不可能性において、作者の限りない優しさを読者が感じられるという設計になっている。天には「雲雀」、地に「泰司」。春はいよいよ甘美でもあり、物悲しくもある。『無帽』(1956)所収。(清水哲男)


March 1031999

 深追いの恋はすまじき沈丁花

                           芳村うつぎ

丁花は春咲きの花のくせに、暗いイメージと結びつきやすいようである。何冊かの歳時記を開いてみても、ひとしなみに暗い句ばかり(と言ってもよいほどだ)。この稿を書くにあたって、庭に咲いている花を、あらためて観察してみた。花そのものは可憐といってもよいほど可愛らしいのだけれど、暗い印象は、花を囲む葉の色がつややかではあるが暗緑色で重い色感のせいだろうか。よく見ないと、一瞥するだけだと、たしかに陰欝な感じを受ける。香りもきついので、けっこう嫌う人も多いのだという。だから、こんな具合に、沈丁花には迷惑な話ながら、人間の深情けの反省のきっかけにされてしまったりもするのだ。句の中身は演歌に近いが、かろうじて沈丁花に救われて「俳句」になったというところ。と言って、私はべつに演歌を馬鹿にしているのではない。演歌の主体には常に匿名性があって、それも私は昔から好きだった。が、匿名性によりかかれない現代俳句という表現ジャンルには、このような作者なりの取り合わせの工夫が必要であるということだ。三橋鷹女には、別の理由によって、決して演歌にはならないであろう次の句がある。「沈丁やをんなにはある憂鬱日」。(清水哲男)




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