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March 0631999

 啓蟄の庭とも畠ともつかず

                           安住 敦

蟄(けいちつ)は二十四気の一つ。「啓」は「ひらく」で「蟄」は巣ごもりを意味する。冬眠していた虫たちが、このころになると地上に姿をあらわしはじめる。だから、今日は「啓蟄」かと思うと、誰でも作者と同じように、つい地面を見つめたくなってしまう。そこにめでたく虫がいたかどうかは別にして、眺めてみると、作者の庭には春の花も咲いているが、食料としての野菜類も植えられている。これでは「庭」なんだか「畠」なんだかわからないじゃないかと、苦笑している図である。戦中から戦後にかけての食料難の時期は、都会の家々の「庭」はみんな「畠」も同然だった。なにしろ、野球でおなじみだった東京の後楽園球場までもが野菜畠と化していたのだ。でも、この句を現代のそれとして読む人もいるはずだ。「家庭菜園」に熱心に打ち込んでいる人も多いので、そのような読者の共感と微苦笑をも得られそうである。それにしても「啓蟄」の「蟄」とは覚えにくい漢字だ。よーく見てみるとそんなに難しいわけではないのだけれど、万年筆で原稿を書いていたころには、いつも「チェッ」と舌打ちしては辞書を引いたものだ。使用頻度が、極端に少ないせいもある。いまは「ワープロさまさま」で、一発で出てくる。(清水哲男)


March 0532004

 啓蟄や押し方馴れし車椅子

                           三村八郎

日は「啓蟄(けいちつ)」。俳句の初心者が必ず「えっ、こりゃ何だ」と戸惑う季語で、漢字も難しいのだけれど、逆にいちはやく覚えてしまうという不思議な季語だ。むろん、私もそうだった。地中に眠っていた虫たちが、暖かい気候になって穴を出てくることである。「車椅子」を押したことはないが、この句はわかる。押す人にとって、何が気になるかといえば、地面の凹凸の具合だろう。普通に歩く分には気にならない凹凸が、いざ車椅子を押す段になるととても気になる。馴れないときには、そればかりに神経が働く。だから、いつも地面の表面だけは気にしていても、地中に虫が眠っていることなどには思いが及ばない。そんな心の余裕はないのである。ところが、このごろ作者はようやく押し方に馴れてきて、コツが掴めてきた。ほとんどスムーズに押せるようになった。そして、ふと今日が啓蟄であることに気づき、自分が気づいたことに微笑している。押しながら、地面の下のことを思うようになれたということは、押し方が上手になったという理屈で、体験者ならではの喜びが滲み出ている。無関係な人からすればささやかな喜びに写るかもしれないが、介護者にはこういうことだって大きな力になるし、励ましになる。私たちは車椅子に乗っている人のことをしばしば思うけれども、押している人については看過しがちだ。これからの暖かい季節、車椅子の人たちをよく見かけるようになる。そのときに私は、きっと掲句をちらりとでも思い出さずにはいられないだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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