テレ朝が謝る必要はない。埼玉の役人は腰抜けだとハンドルを離して熱弁の運転手氏。




1999ソスN2ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2521999

 雨はじく傘過ぎゆけり草餅屋

                           桂 信子

餅屋だから、そんなに大きな店ではない。店の土間と表の通りとが、そのまま地つづきになっているような小さな店を想像した。観光地に、よく見られる店だ。外は春雨。作者が店内で草餅を選んでいると、傘に雨粒を弾かせながら、草餅など見向きもせずに通り過ぎて行った人がいたというのである。雨を弾く傘ということは、コウモリ傘などではなくて、油紙を張った昔ながらの唐傘だろう。それもこの句の場合には、油紙の匂いがプンと鼻をつくような新しい唐傘が望ましい。草餅に春を感じ、通り過ぎて行った人の傘の音にも春を感じと、この句は春の賛歌に仕上がっている。外光的には暗いのだけれど、だからこそ、かえって春の気分が充実して感じられる。草餅は、大昔には春の七草の御行(母子草)を用いたとも聞くが、現在では茹でた蓬(よもぎ)を搗き込んで餅にする。子供のころに住んでいた田舎は蓬だらけだったから、草餅の材料には不自由しなかった。よく食べたものだが、草餅のために摘んだ程度で息絶えるようなヤワな植物ではない。こいつが大きくなると強力な根が張ってきて、引っこ抜こうにも簡単には抜けなくなる。農家の敵だった。草餅を見かけると、つい、そんなことも思い出される。『草樹』所収。(清水哲男)


February 2421999

 春愁の中なる思ひ出し笑ひ

                           能村登四郎

愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)


February 2321999

 東京の雪ををかしく観て篭る

                           山形龍生

前市から出ている日刊紙「陸奥新報」に、藤田晴央君の詩集『森の星』(思潮社)の書評を書いた。掲載紙(2月16日付)が送られてきて、一面の記事で津軽の雪の凄さに驚いていたら、片隅に俳句のコラム(福士光生「日々燦句」)があって、この句が載っていた。以下、福士氏の解説を引用しておく。「映像は、雪に襲われた都民の醜態・不様。「観て」を--対岸の火事を囃す群衆のように--と解せば「をかし」は不様に向けたものだが、それでは雪国に住む者の狭量。雪に対して用心深い津軽人の作者には、不様の原因である無防備が不思議でならないのだ」。「都民の醜態・不様」とはいささかケンのある物言いだが、なるほど、雪国の人からこのように言われても仕方のないところは、たしかにある。ただし、この句は「無防備が不思議」などとおためごかしを言っているのではなくて、わずかの雪に滑ったり転んだりとあわてふためく都民の姿が、単純に可笑しいと笑っているのである。この笑いには皮肉も風刺も、そしてなんらの敵意も含まれてはいない。素直で素朴な笑いなのだ。そう読まないと、句がかわいそうである。「篭る」は「こもる」。新聞記事に戻れば、2月15日の青森市の積雪132センチは「平成で最高」とあった。(清水哲男)




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