毎年、二月末は原稿の締切に追われる。陰暦だったら30日まである年もあったのに。




1999年2月24日の句(前日までの二句を含む)

February 2421999

 春愁の中なる思ひ出し笑ひ

                           能村登四郎

愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)


February 2321999

 東京の雪ををかしく観て篭る

                           山形龍生

前市から出ている日刊紙「陸奥新報」に、藤田晴央君の詩集『森の星』(思潮社)の書評を書いた。掲載紙(2月16日付)が送られてきて、一面の記事で津軽の雪の凄さに驚いていたら、片隅に俳句のコラム(福士光生「日々燦句」)があって、この句が載っていた。以下、福士氏の解説を引用しておく。「映像は、雪に襲われた都民の醜態・不様。「観て」を--対岸の火事を囃す群衆のように--と解せば「をかし」は不様に向けたものだが、それでは雪国に住む者の狭量。雪に対して用心深い津軽人の作者には、不様の原因である無防備が不思議でならないのだ」。「都民の醜態・不様」とはいささかケンのある物言いだが、なるほど、雪国の人からこのように言われても仕方のないところは、たしかにある。ただし、この句は「無防備が不思議」などとおためごかしを言っているのではなくて、わずかの雪に滑ったり転んだりとあわてふためく都民の姿が、単純に可笑しいと笑っているのである。この笑いには皮肉も風刺も、そしてなんらの敵意も含まれてはいない。素直で素朴な笑いなのだ。そう読まないと、句がかわいそうである。「篭る」は「こもる」。新聞記事に戻れば、2月15日の青森市の積雪132センチは「平成で最高」とあった。(清水哲男)


February 2221999

 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

                           中村苑子

妻。単に結婚している女性を言うにすぎないが、たとえば「既婚女性」や「主婦」などと言うよりも、ずっと人間臭く物語性を感じさせる言葉だ。それは「人妻」の「人」が、強く「他人」を意味しており、社会的にある種のタブーを担った存在であることが表示されているからである。もとより、この言葉には、旧弊な男中心社会の身勝手な考えが塗り込められている。最近は、演歌でもめったに使われなくなったように思う。その意味では、死語に近い言葉と言ってもよいだろう。作者は女性だが、しかし、ほとんど男のまなざしで「人妻」を詠んでいるところが興味深い。春の日の昼下がり、遠くからかすかに喇叭(ラッパ)の音が流れてきた。彼女には、戸外でトランペットか何かの練習に励む若者の姿が想起され、つい最近までの我が身の若くて気ままな自由さを思い出している。といって、今の結婚生活に不満があるわけではないのだけれど、ふと青春からは確実に隔たった自分を確認させられて、ちょっぴり淋しい気分に傾いている。遠くの喇叭と自分とを結ぶか細い一本の線、これすなわち「春愁」の設計図に不可欠の基本ラインだろう。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)




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