神代植物園でクリスマス・ローズの展示会(明日まで)。昨年は8000人の人出。




1999ソスN2ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1321999

 芹つみに国栖の処女等出んかな

                           榎本星布

本星布(せいふ・1732-1814)は女性。武蔵国八王子(現・東京都八王子市)生まれ、加舎白雄門。古典の教養を積んだ人で、私のように朦朧とした人間にも、この句のおおらかさは万葉の時代を想起させる。上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)で勉強したところによれば、『万葉集』巻十の春相聞「国栖(くにす)らが若菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」を踏まえている。国栖(くず)は奈良県吉野川上流の集落名で、奈良・平安時代を通じて宮中の節会に笛などの演奏で参加を認められていたという。その意味では、由緒正しい伝統のある土地柄なのだ。ところで、句は見られるとおり、踏まえているといっても、恋の心を踏んでいるわけではない。明るくおおらかな若菜摘みの情景だけを借りてきて、みずからの晴朗な心映えを伝達しようとしている。したがってここで注目しておきたいのは、万葉の情景を拝借してまでも、このようなおおらかさを歌い上げておこうとした星布の内心である。いわば「かりそめの世界」に無理にも遊ぼうとした作者の、現世に対する苛立ちを逆に感じてしまうと言ったら、深読みに過ぎるだろうか。あまり上手ではない句だけに、気にかかるところだ。「処女」は「おとめ」と読む。(清水哲男)


February 1221999

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

                           与謝蕪村

明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。(清水哲男)


February 1121999

 雪の夜長き「武蔵」を終わりけり

                           徳川夢声

川夢声というひとがいた。ラジオがまだ娯楽の王座にあった時代、夢声の朗読は「話術の至芸」として日本国中知らないものはなかった。特に有名だったのが吉川英治の『宮本武蔵』の朗読で、その本物を聞いたことがない田舎の子供でも口真似ができたほどである。ラジオではNHKで昭和14年から15年まで続き、その後戦時国民意識高揚に18年から20年1月15日まで続いた。この句はその最後の日に作られたものである。夢声は俳句好きで久保田万太郎の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。日記代わりに作ったので膨大な凡作の山であるが、そこがいかにも夢声らしい。俳号・夢諦軒。「武蔵」の朗読は戦後復活し、昭和36年から38年に「ラジオ関東」で放送され、レコードになった。私達が聞いたのはそれかもしれない。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。(井川博年)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます