蟄」隱槭′譏・縺ョ遨コ縺ョ句

February 0821999

 春空に鞠とゞまるは落つるとき

                           橋本多佳子

(まり)とあるけれど、手鞠の類ではないだろう。私が子供だったころ、女性たちはキャッチ・ボールのことを「鞠投げ」と呼んだりして、我等野球小僧をいたく失望させたことを思い合わせると、おそらく野球のボールだと思われる。句の鞠の高度からしても、手鞠ではありえない。カーンと打たれた野球ボールが、ぐんぐんと昇っていく。もう少しで空に吸いこまれ、見えなくなりそうだなと思ったところで、しかし、ボールは一瞬静止し、今度はすうっと落ちてくる。春の空は白っぽいので、こういう観察になるのだ。それにしても、「鞠とゞまるは落つるとき」とは言いえて妙である。春愁とまではいかないにしても、暖かくなりはじめた陽気のなかでの、一滴の故なき小さな哀しみに似た気分が巧みに表出されている。昔の野球小僧には、それこそ「すうっと」共感できる句だ。「鞠」から「ボール」へ、ないしは「球」へ。半世紀も経つと、今度は「鞠」のほうが実体としても言葉としても珍しくなってきた。いまのうちに注釈をつけておかないと、他にもわからなくなりそうな句はたくさんある。俳句であれ何であれ、文学に永遠性などないだろう。いつか必ず「すうっと」落ちてくる。(清水哲男)


February 2822000

 春空の思はぬ方へ靴飛べり

                           守屋明俊

供時代の思い出。春の空を見ているうちに、ひょいと思い出している。ボールか何かを思い切り蹴飛ばしたら、ついでに靴までが脱げて飛んでいってしまった。ボールはあっちへ、靴はあらぬ方へと。私にも、覚えがある。今はそうでもないのだろうが、昔の子供は少し大きめの(ともすると、ブカブカの)靴を買い与えられたものだ。月星運動靴だったかなあ、そんなズック靴。成長がはやいので、ぴったりした靴だと、すぐに履けなくなってしまうからである。靴といえぱ忘れられないのが、高校に入学した春のことだ。当時の立川高校は入学できる地域が広く、多摩地区全体から志望することができた。西は檜原村あたりから東は武蔵野市あたりまで。で、私など西からの新入生は当然のようにズック靴を履いていったのだが、東からの連中はみな革靴を履いていた。口惜しいので口にこそ出さなかったけれど、かなりのショックを受けた。そんなことは、東の諸君は覚えていないだろうな。革靴を買ってもらったのは、大学に入ってからだった。何度も靴底を張り替えて履いていたものである。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 1122002

 春の空人仰ぎゐる我も見る

                           高浜虚子

のない青空でも、「春の空」は靄(もや)がかかっていて、白くうるんでいるようだ。そんな空を、誰かが立ち止まって振り仰いでいる。何を熱心に見ているのだろう。鳥か、飛行機か、それとも何か珍しい現象でも……。人の心理とは面白いもので、つい一緒になって仰いでしまう。その人の目線に見当をつけて、何かわからぬものを求めて一心に目を凝らす。透明な空ではないので、同じ方角のあたりをあちこち探し回ることになる。いいトシの大人が、好奇心いっぱいで空を仰いでいる図はユーモラスだ。春ならではののどかさが、じわりと伝わってくる。掲句には実はオチがあって、「春の空人仰ぎゐる何も無し」ということだった。なあんだ。でも、この「なあんだ」も如何にも春の心持ちにフィットする。無内容と言えば無内容。しかし、こういうことが表現できる文芸ジャンルは、俳句以外には考えられない。このあたりが、俳句様式のしたたかなところだろう。無内容を面白がる心は西洋にもあるけれど、俳句のそれとはかなり異なるようである。無内容を自己目的化して表現するのが西洋的ナンセンス詩だとすれば、目的化せずに表現した結果の無内容を楽しむのが俳句ということになろうか。『七百五十句』(1964・講談社「日本現代文学全集」)所収。(清水哲男)


January 2112011

 手を容れて冷たくしたり春の空

                           永田耕衣

本尚毅さんの「手をつけて海のつめたき桜かな」と並べて鑑賞すると面白い。「したり」は能動。自分の手が空を冷たくするのだ。直感的に空よりも手の方が冷たいという比較を強調しているように思う。そして句の中には自分と春の空の二者が登場する。それに対して岸本さんの方は手と海と桜の三者が登場する。空間の奥行はこちらの方が構成的。耕衣作品は「春の空」を擬人化しているようにも見える。その分、文学臭が強いようでもある。『殺佛』(1978)所収。(今井 聖)


April 2142011

 ことば呼ぶ大きな耳や春の空

                           小川軽舟

は閉じれば嫌なものを見なくてすむ。鼻は息をつめればある程度匂いを遮断できる。口を閉じれば話さなくてすむ。なのに耳だけは自分の意思で塞ぐことはできない。ほかの器官がだめになっても耳だけは最期の最期まで機能しているとどこかで聞いたことがある。掲句での「大きな」は耳自体の大きさをあらわすだけでなく、よく人の話しを聞く賢い耳なのだろう。人に語らせる力を持つ耳。人を動かすのは気のきいた言葉や雄弁さではなく、相手の語る言葉の真意がどこにあるのか注意深く聞きわける力かもしれない。そう思ってみても簡単には「大きな耳」の持ち主になれるわけもなく、そんな耳を持つ人に憧れるばかりである。そんな耳の持ち主は和やかな春の空に似通っていて、語る人を包み込む優しさを持っているのだろう。『新撰21』(2010)所収。(三宅やよい)


February 0922013

 春の空後頭部から水の音

                           岩崎康史

月の空は、秋の高い空とはまた違った青さを見せて美しいが、時にゆるゆると霞んだ春の空になる日もある。先週末、雨がぱらついた時は久しぶりにやわらかい土の匂いが漂って、立春の日の空はぼんやりと春めいた色をしていた。掲出句、もう少し春が深まって暖かさを感じる頃だろう、ただ、立春の日の淡い空の色が、昨年の夏に読んだこの句を思い出させた。俳句初心者の高校生が初めての吟行で作った句だ。後頭部から水の音、は、春の池が自分の後ろにある感じ、と本人は言っているが、頭の中で水音がしているようにも思える。それは、せせらぎの音なのか魚が跳ねる音なのか鳥の羽が水面を打つ音なのか。いずれにしても、水音を後ろに感じながら、春の空、と視線を広々とした空へ誘っているのがいい。読者も作者同様、空を見上げ深く一つ息をして、音や光やさまざまな春のざわめきを感じることができるのだ。今井聖『部活で俳句』(2012・岩波書店)所載。(今井肖子)




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