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1999ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0521999

 受験期や多摩の畷の土けむり

                           中 拓夫

れでは、いきなり問題です。「句の『畷』に読み仮名をふり、その意味を書きなさい」……。お互いに苦労しましたねえ、こんな問題に。もう二度とご免です。正解は、読み仮名が「なわて」、意味は「あぜ道」か、あるいは「まっすぐな長い道」です。普通「畷」は「あぜ道」なのですが、句の場合には「まっすぐな長い道」と解したほうがよいと思います。たとえば、東京は多摩川土手のまっすぐな長い道などを想起してください。春先、多摩地方の関東ローム層特有の土を強風が巻き上げる様子には、とにかく凄まじいものがありました。空が灰色になってしまうのですから、まっすぐな長い道も遠くが見えなくなるくらいに煙ってしまうのでした。受験の句というと、受験そのものの哀歓を詠む句が多いなかで、それを風景につなげた季語として捉えたところに、面白さが感じられます。明るさもありますが、かえって切ない気分も感じられます。毎年、多摩地方に土けむりが舞い上がるころともなると、作者は自分が受験した昔のことを思い出すのでしょう。それで、受験期の風景を「土けむり」に代表させたのでしょう。もっとも、現在では「畷」もほとんどがアスファルトに覆われてしまい、「土けむり」よりも、むしろ排気ガスのほうが問題になってはいるのですが……。(清水哲男)


February 0421999

 雨の中に立春大吉の光あり

                           高浜虚子

暦では一年三百六十日を二十四気七十二候に分け、それを暦法上の重要な規準とした。立春は二十四気の一つ。暦の上では、今日から春となる。しかし、降る雨はまだ冷たく、昨日に変わらぬ今日の寒さだ。禅寺では、この日の早朝に「立春大吉」の札を入り口に貼るので、作者はそれを見ているのだろう。寒くはあるが、真白い札の「立春大吉」の文字には、やはりどこかに春の光りが感じられるようだ。あらためて、新しい季節の到来を思うのである。実際に見てはいないとしても、今日が立春と思うだけで、心は春の光りを感受しようとする。立春は農事暦のスタート日でもあり、「八十八夜」も「二百十日」も今日を起点として数える。それから、陰暦での今日はまだ十二月十八日と、師走の最中だ。閏(うるう)月のある(今年は五月が「五月」と「閏五月」の二度あった)年の立春は、必ず年内となるわけで、これを「年内立春」と呼んだ。正月のことを「新春」「初春」と「春」をつけて呼ぶ風習は、このように立春を意識したことによる。ちなみに、今度の陰暦元日は、再来週の陽暦二月十六日だ。立春を過ぎての正月だから、文字通りの「新春」であり「初春」である。以上、誰もが昔の教室で習った(はずの)知識のおさらいでしたっ(笑)。(清水哲男)


February 0321999

 硝子負ひ寒波の天を映しゆく

                           田川飛旅子

を読んですぐに思い出したのは、田中冬二の「青い夜道」という初期の詩だ。少年が町で修繕した大きな時計を風呂敷包みにして背負い、田舎の青い星空の夜道を帰ってくる。ここからすぐに冬二の幻想となり、その時計が「ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ……」と、少年の背中で鳴るのである。「少年は生きものを 背負つてゐるやうにさびしい」と、詩人はつづけている。一方で掲句は幻想を書いているのではなくて、見たままをスケッチしているのだが、双方には共通したポエジーの根があると感じられる。つまり、人間が背中に大きくて重いものを背負うということ。前かがみとなって、一心に道を歩くということ。その姿を「さびしい」と共感する感性が、日常的に存在したということ。車社会ではなかった時代の人間の当たり前の物の運び方には、つらかろうとか、可哀相だとか、そういう次元を越えた「忍耐の美」としか形容できない感じがあった。その忍耐のなかにあるからこそ、時計が鳴りだすのであり、硝子(ガラス)が寒波の天を映して壮麗な寒さを告げているのだ。背負うというと、簡単なザックだけという現代では、なかなか理解されにくくなってきた感覚だろう。大きな荷物のほとんどは、みな人が背負うものであった。ついこの間までの「現実」である。(清水哲男)




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