会社員給与が初のマイナスに。原稿料なんて実勢価格に比べればずうっとマイナスだ。




1999ソスN1ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 3011999

 寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ

                           森 澄雄

中の鯉はじっとしていてほとんど動かず、食べず、この季節には成長がとまるらしい。私は泥臭くて好まないけれど、食べるのなら、真冬のいまどきがいちばん美味いのだそうである。同様に、厳冬の寒鮒も美味いといわれる。したがって、上掲のような句も生まれてくるわけだが、自註に曰く。「ある日ある時、飲食にかかわる人間のかなしき所業を捨てて、自ら胸中、一仙人と化して、無数の鯉を飼ってそれと遊ぶ白雲去来の仙境を夢見たのだ」(『森澄雄読本』)。俳人も人間だから(当たり前だッ)、ときに浮世離れをしたくなったということだろう。写生だの描写だの、はたまた直覚だの観照だのという浮世俳諧の呪縛から身をふりほどいて、むしろひとりぼんやりと夢を見たくなった気持ちがよく出ている。しょせん漢詩にはかなわぬ世界の描出だとは思うが、たまには不思議な俳句もよいものである。とりあえず、ホッとさせられる。(清水哲男)


January 2911999

 洋蘭の真向きを嫌うかぜごこち

                           澁谷 道

者は内科医。病人一般の心理には通暁している。しかし、この場合の「かぜごこち」は作者本人のそれだろう。風邪気味の身には、洋蘭の重厚な華やかさが、むしろ鬱陶しいのだ。だから、自分の真正面に花が相対することを嫌って、ちょっと横向きに鉢をずらして据え直した。そんなところだろうが、この気分はよくわかる。発熱したときには、元気なものや華やかなもののすべてがうとましい。どんなに好きなテレビ番組でも、見たくなくなる。風邪の症状は一時的だから、直ればそんなこともケロリと忘れてしまうのだけれど、長患いの人の憂鬱はどんなに深いものだろうか。ましてや老齢ともなると、鬱陶しさは限りない感じだろう。鉢植えの花にせよ、テレビ番組にせよ、なべてこの世の文化的産物は、病人向けに準備されたものではない。享受する人間が元気であることが、前提とされ仮定された世界だ。考えてみれば、これは空恐ろしいことである。最近でこそ、病人や高齢者など「社会的弱者の救済」が叫ばれるようになってはきたが、この言葉や行為そのものに含まれる「元気」もまた、本質的には鬱陶しさの種になりやすいのではあるまいか。『紫薇』(1986)所収。(清水哲男)


January 2811999

 斯かる人ありきと炭火育てつつ

                           星野立子

後六年目(1951)の作句。立子、四十七歳。まだ、炭火で暖を取るのが当たり前だった頃の句だ。毎日の火鉢の炭火にしてもけっこう育てるのは難しく、それなりに一家言のある人がいたりして、いま思い出すとそれこそけっこう面白い作業ではあった。したがってこの句の「斯(か)かる人」とは、いま眼前に育ちつつある炭火のようなイメージの人というのではなくて、炭火の育て方の巧みだった人のことを言っている。それも育て方を直接教わったというのではなく、その巧みさに見惚れているうちに、いつしか彼の流儀が身についてしまったようだ。で、いつものように炭火を扱っていたら、ひょいとその人のことを思い出したというわけだ。手がその人を覚えていた。遠い昔のその人も、やはりこうやって炭を扱っていたっけ。そして、もっと見事な手さばきだった……。と、作者は炭火の扱い以外には何の関心も抱かなかったその人のことを、いまさらのように懐しく思い出すのである。こういうことは、私にも時々起きる。教室の火鉢にちっちゃな唐辛子を遠くから正確に投げ込んで、みなを涙にくれさせた某君の名コントロールを、こともあろうに突然プロ野球実況を見ながら思い出したりするのである。『實生』(1957)所収。(清水哲男)




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