季語が凍るの句

January 1811999

 いきながら一つに冰る海鼠哉

                           松尾芭蕉

禄六年(1693)の作。亡くなる前年の句ということになるが、それより五年前の貞享五年(途中から元禄元年)とする説もある。いずれにしても、芭蕉晩年の軽みの境地を示す。魚屋の店先だろうか。海鼠(なまこ)が入れられた桶をのぞくと、張ってある水が寒さのために凍っている。当然、入れられているいくつかの海鼠も冰(こお)りついており、そのせいでいくつ入っているのか区別もつかない。なんとなく「一つ(一体)」のように見えてしまうのである。それも「いきながら」であるから、海鼠のグロテスクな形状と合わせてちょっぴり笑ってしまうのだが、しかし同時に、笑うだけではすまされない哀れの感情もわいてくる。この句に関連して「俳句朝日」(1999年2月号)に出ている廣瀬直人の付言は、実作者に目を開かせる。「句を作る場合には、見える表現をとか、よく見て写生をなどと言われるが、理屈はとにかくとして、この掲句のように、まず、いかにも『海鼠』らしいと感じさせることが基本になる」。なるほど、いかにも芭蕉の見たこの「海鼠」は「海鼠」らしいではないか。蛇足ながら、句尾の「哉」は「かな」と読む。(清水哲男)


February 1221999

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

                           与謝蕪村

明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。(清水哲男)


January 1512002

 上流や凍るは岩を押すかたち

                           ふけとしこ

語は「凍(こお)る」で冬。寒気のために物が凍ることだけではなく、凍るように感じることも含む。川の上流は自然のままなので、岩肌がゴツゴツと露出している。厳寒期になって飛沫がかかれば、当然まずは岩肌の表面から凍っていくだろう。そして、だんだんと周辺が凍ることになる。その様子を指して、凍っていく水が「岩を押すかたち」に見えるというのだ。「凍る」という現象を視覚的な「かたち」に変換したことで、自然の力強さが読者の眼前に浮かび上がってくる。なるほど、たしかに岩が押されているのだ。掲句を読んだ途端に、大串章に「草の葉に水とびついて氷りけり」があったことを思い出した。言うならば岩を飛び越えた飛沫が「草の葉」にかかった情景を、繊細な観察力で描き出した佳句である。岩を押す力強さはなくても、これもまた自然の力のなせるわざであることに変わりはない。再び、なるほど。たしかに草の葉はとびつかれているのだ。岩は押され、草の葉はとびつかれと、古来詠み尽くされた感のある自然詠にも、まだまだ発見開拓の期待が持てる良句だと思った。「ホタル通信」(22号・2002年1月8日付)所載。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)


January 2912006

 凍つる日の書架上段に詩集あり

                           藤村真理

語は「凍つ(凍る)」で冬。自宅の「書架」ではあるまい。「凍(い)つる日」を実感しているのだから、外出時でのことだ。図書館でもなく、書店の書架だと思う。凍てつく表から暖かい書店に入り、ようやく人心地がついたところだろう。まずはいつものように関心のある本の多い書架を眺め、ついでというよりも、身体が暖まってきた心のゆとりから、普段はあまり注意して見ることのない「上段」を見渡したところ、そこに立派な「詩集」が置いてあった。著名詩人の全詩集のような書物だろうか。高価そうな本だし、手を伸ばしても届きそうもない上のほうの棚のことだし、中味を見ることはしないのだけれど、その凛とした存在感が表の寒さと呼応しあっているように感じられた。このときに「上段」とは「極北」に近い。著者が孤高の詩人であれば、なおさらである。ぶっちゃけた話をすれば、詩集が上段に置いてあるのは売れそうもないからなのだが、それを存在感の確かさと受け止め変えた作者の心根を、詩の一愛好者としては嬉しく思う。ただ常識から言うと、一般の人にとって、詩集は遠い存在だ。せっかく字が読めるのに、生涯一冊の詩集も読まずに過ごす人のほうが圧倒的に多いだろう。「上段」どころてはなく、いや「冗談」ではなく、多くの人々にとっての詩集は、「極北」よりもさらに遠くに感じられているのではあるまいか。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


December 20122006

 徒に凍る硯の水悲し

                           寺田寅彦

田寅彦については、今さら触れる必要はあるまい。物理学者であり、漱石門下ですぐれた随筆もたくさん残した。筆名・吉村冬彦。二十歳の頃には俳句を漱石に見てもらい、「ホトトギス」にも発表していた。俳号は藪柑子とも牛頓(ニュートン)とも。さて、一般的には、現在の私たちの書斎から硯の姿はなくなってしまったと言っていいだろう。あっても机の抽斗かどこかで埃にまみれ、「水悲し」どころか干あがって「硯の干物」と化しているにちがいない。私などはたまに気がふれたように筆を持ちたくなっても、筆ペンなどという便利で野蛮なシロモノに手をのばして加勢を乞うている始末。「硯の水悲し」ではなく「硯の干物悲し」のていたらくである。その昔、硯の水にしてみればまさか「徒に」凍っているつもりではあるまいが、冬場ちょっとうっかりしていると机の上の硯に残された水は凍ってしまったり、凍らないまでもうっすらと埃が浮いたりしてしまったものだ。それほど当時の部屋は寒かった。せいぜい脇に火鉢を置いて手をかざす程度。いくら寺田先生だって、まさか筆で物理学の研究をしていたわけではあるまい。手紙をしたためたりしたのだろう。だとすれば、忙しさにかまけてご無沙汰してしまって・・・・とまで、この一句から推察できる。この「悲し」はむしろ「あわれ」の意味合いが強く、悲惨というよりも滑稽味をむしろ読みとるべきだろう。一句から先生の寒々とした部屋や日常までが見えてくるようだ。たとえば同じ「凍る」でも、別の句「孤児の枕並べて夢凍る」などからは悲惨さが重く伝わってくる。1935年に発表した「俳句の精神」という俳句論のなかで、寅彦は「俳句の亡びないかぎり日本は亡びない」と結語している。71年後の今日、俳句と日本は果して如何? 『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)


January 1712007

 凍つる夜の独酌にして豆腐汁

                           徳川夢声

語は「凍(い)つる」。現在は1月7日までが通常「松の内」と呼ばれるけれど、古くは15日までが「松の内」だった。江戸時代には「いい加減に正月気分を捨ててしまえ」という幕府の命令も出たらしい。大きなお世話だ。掲出句の情景としては、妻が作ってくれたアツアツの豆腐汁に目を細めながら、気の向くままに独酌を楽しんでいる姿と受けとめたい。妻はまだ台所仕事が片づかないで、洗い物などしているのかもしれない。外は凍るような夜であっても、ひとり酌む酒ゆえに肴はあれもこれもではなく、素朴な豆腐汁さえあればよろしい。寒い夜の小さな幸せ。男が凍てつく夜に帰ってきて、用事で出かけた妻が作っておいた豆腐汁をそそくさと温めて、ひとり酌む・・・・と解釈するむきもあろうが、それではあまりにも寒々しすぎるし、上・中・下、それぞれがせつない響きに感じられてしまう。ここは豆腐汁でそっと楽しませてあげたい、というのが呑んべえの偽らざる心情。豆腐のおみおつけだから、たとえば湯豆腐などよりも手軽で素っ気ない。そこにこの俳句のしみじみとした味わいがある。この場合「・・・にして」はさりげなく巧みである。現在、徳川夢声(むせい)を知っているのは50〜60代以降の人くらいだろう。活動弁士から転進して、漫談、朗読、著述などで活躍したマルチ人間。その「語り芸」は天下一品だった。ラジオでの語り「宮本武蔵」の名調子は今なお耳から離れない。渋沢秀雄、堀内敬三らとともに「いとう句会」のメンバーだった。「夢諦軒」という俳号をもち、二冊の句集を残した。「人工の星飛ぶ空の初日かな」という正月の句もある。『文人俳句歳時記』(1969・生活文化社)所収。(八木忠栄)


January 2512007

 絶頂の東西南北吹雪くかな

                           折笠美秋

が降れば単純に嬉しい地域にしか住んだことのない私に吹雪への恐怖はない。その凄まじさについて「暖国にては雪吹を花のちるさまに擬したる詩作詠歌あれど、吾国(北越)にては雪吹にあふものは九死に一生」と『北越雪譜』に記載がある。横須賀出身の美秋も吹雪の激しさに縁が薄かったろうから、経験からではなく言葉で描きだされた心象風景だろう。四方さえぎるもののない頂上に登り詰めた末、進むことも退くこともできぬまま真っ白な世界に閉じ込められて方角を見失う。絶景を約束された場所で吹雪に封じられる逆説が映像となって立ち上がるのは叙述が「かな」の強い切字で断ち切られているから。東京新聞の記者として第一線で活動していた美秋は筋萎縮性側索硬化症(ALS)に倒れ7年の闘病生活を送った。唇の動きや目の瞬きで妻に俳句を書き取らせ、身動きの出来ぬ病床で俳句を作り続けたという。句集の最後は「なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため」の句で終っている。掲載句も病床から発表されたものらしい。言葉と言葉の連結で俳句世界を作り上げることにこだわった作者にとって、自分の俳句が境涯から語られることは不満かもしれない。しかし、彼の病気を考慮にいれても、背景から切り離してもなおこの句が生きるのは選ばれた言葉にそれだけの強靭さが備わっているからだろう。『君なら蝶に』収録『虎嘯記』抄(1984)所収。(三宅やよい)


December 02122008

 ひよめきや雪生のままのけものみち

                           恩田侑布子

句は「生」に「き」のルビ。上五の「ひよめき」とは見慣れぬ言葉だが、「顋門」と表記し、広辞苑によると「幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時、脈拍につれて動いて見える前頭および後頭の一部」とある。身体の一部とはいえ、「思」という漢字が使われていることや、大人になれば消滅してしまうものでもあり、幼児期だけに見られる、思考が開閉する場所のように思えるのだ。掲句では、雪野原のなかで踏み固められた一筋のけものみちに、ひよめきをそっと沿わせた。乱暴に続く雪の窪みが幼児の骨の形態を連想させるだけでなく、ただ食べるために雪原を往復するけものの呼吸が、熱く伝わるような、ひよめきである。〈刃凍ててやはらかき首集まり来〉〈ひらがなの地獄草紙を花の昼〉『空塵秘抄』(2008)所収。(土肥あき子)


December 10122008

 極月や冬という名のデザイナー

                           ホーカン・ブーストロム

前、このサイトでスウェーデン人の俳句を紹介したことがある。それと同じ日本とスウェーデン初の俳句アンソロジー『四月の雪』から掲出句を採った。原句の直訳は「十二月の今日/冬という名のデザイナーは/そのコレクションを披露する」(舩渡和音訳)。これを清水哲男が翻案した。ちなみにスウェーデンの俳句界では、季語は定められていないそうだから、ここでは「極月」と「冬」の同居に目くじらをたてる必要はあるまい。「冬という名のデザイナー」が効いている。たしかに雪や寒さだけでなく、冬の諸々をデザインする者がどこかにひそんでいるのかもしれない。やさしいデザイナー、きびしいデザイナーなど、いろんなタイプのデザイナーが季節を操っているにちがいない、と考えると愉快ではないか。冬に限らず、春の、夏の、秋の腕っこきのデザイナーももちろんいるだろう。彼が持っている折々のコレクションを次々に披露してくれる――そんなふうに季節の変化を受けとめるロマンを持てたらすばらしい。海外での俳句熱は年々盛んである。日本とスウェーデンに限らず、俳句を通して日本と他の国の人々の感性、あるいは文化のちがいや共通性を見出してゆくことの意義は大きい。同書からもう一句ご紹介しよう、「高圧線凍れる国に弦を張る」。『四月の雪』(2000)所収。(八木忠栄)


January 1012013

 目が見えて耳が聞こえて冬の森

                           山田露結

が多いのが森、森より木が少ないのが林。と小学校のときに漢字を習ったときに教わった覚えがある。本当のところはどうなのだろう。夏の間あんなにも生い茂っていた葉をすっかり落としてしまった冬の森、青空もあらわに、遠くの音もすぐ近くに聞こえる気がする。冬の澄み切った大気に五感も研ぎ澄まされ、自分の目が見えて、耳が聞こえることが今更のように意識される。目が見えて、耳が聞こえる主体は勿論人間である自分なのだろうが、森それ自体が耳をすまし目を見開いているようだ。冬の森と「わたし」の感受性が共鳴しているのだろう。森の中には冷たい大気のように腹を空かせた猛禽類もいて聞き耳をたてているかもしれない。と勝手な想像はどんどん膨らんでゆく。「歩道橋より氷海を見下ろせる」「あゝこれも中古(ちゅうぶる)の夢瀧涸るる」『ホームスイートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


January 1212013

 大空に月ぶら下がり雲凍てぬ

                           池上浩山人

そらく半月と動かない凍雲、冴え冴えとした景である。凍つる雲と、その雲を照らすほどではない寒々とした月、その二つが一対の景をなして広々とした真冬の空と大気を感じさせている。儒子を父に持ち儒学にも明るかった作者であると知ると、中七から下五にかけて確かに漢詩的な印象だ。また、ぶら下がる、という表現は、伝統的な美と格調を重んじたという作風とはやや違っているようにも思えるが、古書修理の職人であった作者の、まさに見たまま感じたままの言葉であり、滲むことも強く光ることもない冬の半月の形のありのままを表していると言える。今日は今年最初の新月、先週末の真夜中に見た半月を思い出している。『新日本大歳時記 冬』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


February 1522013

 ねずみの仔凍てし瞼の一文字

                           平山藍子

の鼠の仔は死んでるのかな。生きたまま発見されたけど「凍てし」は寒い外気を喩える比喩なのか。どちらにしても鼠の仔が哀れだなあ。寒鴉なんか季語だし、鴉の孤影とかいってよく詠まれるけど、哀れを詠んでも余り物を少しやろうとかは考えないのだろう。はいはいそれはもっともです。害鳥ですからね。近くの公園で犬を連れて歩いていると近所の爺さんが家を出たり入ったりしてこちらをうかがっている。「犬の糞は持ち帰ること」と公園に貼ってあるのでこちらの所業を見張っているのかなと思い立ち去ってふりかえるとその爺さん、辺りを気にしながら公園のつがい鳩に餌をやっていた。公園には「鳩に餌をやらないで」とも書いてあるのでこちらの眼を気にしていたのだった。こんな爺さんを僕は好きだ。じゃあ、お前、ごきぶりとか蚊はどうなんだといわれると考えてしまうけど。鼠の仔もよく見ると可愛いよね。「寒雷・昭和45年3月号」(1974)所載。(今井 聖)


January 2912014

 生き死にの話ぽつぽつどてら着て

                           川上弘美

ういう句に惹かれるのは、こちらが齢を重ねたせいだろうな、と自分でも思う。若い人がこの句の前で立ち止まるということは、あまりないのではあるまいか。(こんな言い方は、作者に対して失礼だろうか?)それにしても「どてら」(褞袍)という言葉は、一部の地方を除いてあまり聞かれなくなった。今は「たんぜん」(丹前)のほうが広く使われている呼称のようだ。呼び方がちがうだけで、両者は同じものである。『俳句歳時記』(平井照敏編)では「広袖の綿入りの防寒用の着物。江戸でどてらと呼び、関西で丹前と呼んだが、いまは丹前と呼ぶのが普通である」と明解である。雪国育ちの私などは「どてら」と呼んでいた。何をするでもなく、お年寄りが寄り合えば、生きてきた過去の思い出、先に亡くなった仲間のことが話題になり、おのがじし溜息まじりに明日あさってのことを訥々とぽつぽつ口にのぼせながら、うつろな目つきで茶などすすっているのだろうか。「どてら」はお年寄りにゆったりとしてよく似合う。どことなくオシャレ。ここは「丹前」でなくて、やはり「どてら」だろう。弘美の同時発表の句に「球体関節人形可動範囲無限や海氷る」という凄まじい句がある。句集に『機嫌のいい犬』(2010)がある。加藤楸邨の句に「褞袍の脛打つて老教授「んだんだ」と」がある。「澤」(2014.1月号)所載。(八木忠栄)




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