為替市場の荒っぽい展開。血の小便が出る人も……。数量化が狂気的凶器となる社会。




1999ソスN1ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1311999

 亡きものはなし冬の星鎖をなせど

                           飯田龍太

は「さ」と読ませる。若き日の龍太の悲愴感あふれる一句。「亡きもの」とは、戦争や病気で逝った三人の兄たちのことであろうが、その他の死者を追慕していると考えてもよい。天上に凍りついている星たちには、いつまでも連鎖があるけれど、人間世界にはそのような形での鎖はないと言うのである。「あってほしい」と願っても、しょせんそんな願いは無駄なことなのだ。と、作者はいわば激しく諦観している。よくわかる。ただ一方で、この句は二十代の作品だけに、いささか理に落ち過ぎているとも思う。大きく張った悲愴の心はわかるが、それだけ力み返っているところが、私などにはひっかかる。どこかで、俳句的自慢の鼻がぴくりと動いている。意地悪な読み方かもしれないが、感じてしまうものは仕方がない。厳密に技法的に考えていくと、かなり粗雑な構成の句ということにもなる。そして、表現者にとって哀しいのは、若き日のこうした粗雑な己のスタイルからは、おそらく生涯抜け出られないだろうということだ。このことは、私の詩作者としての限界認識と重なっている。俳壇で言われるほどに、私は龍太を名人だとは思わない。名人でないところにこそ、逆にこの人のよさがあると思っているし、作者自身も己の才質はもとより熟知しているはずだ。『百戸の谿』(1954)所収。(清水哲男)


January 1211999

 ほそぼそと月に上げたる橇の鞭

                           飯田蛇笏

橇(ばそり)だろう。犬に曵かせる橇もあるにはあるが、この場合は馬でないと絵にならない。大きな月を背景にして、ひょろりと上がったしなやかな鞭の様子は、さながら昭和モダンの白黒で描かれたイラストレーションの世界を見るようだ。実景かもしれないが、この句から人馬の息づかいは感じられない。むしろ、夜の馬橇の出発は、このようにあってほしいという作者の願望が生んだ想像上の句と読むほうが楽しい。フォルム的にも完璧で、寒夜一瞬の静から動への転移の美しさを定着してみせた技ありの句だ。もちろん、あたりは月明に映えた一面の銀世界である。雪の多い山陰地方で育った私には、懐しい光景と写る。橇とはいっても、いわゆる観光用の美々しい仕立てのものではなくて、伐採した材木を運搬するための粗末な代物でしかなかったけれど、雪の上を飛ぶように滑っていくあの感触は、自動車の乗り心地などとはまた別種の快感に浸れる乗り物であった。サンタクロースの橇は空を飛んで来るが、あれは橇に乗っている感覚からすると、嘘ではない。橇は、空を飛ぶように走る乗り物なのである。(清水哲男)


January 1111999

 三寸のお鏡開く膝構ふ

                           殿村菟絲子

方差もあるが、全国的には一月十一日に鏡開を行うところが多い。最近では住宅事情もあり、あまり大きな鏡餅を飾る家は少なくなってきた。テレビの上に乗るほどの小さなものが好まれている。句の鏡餅も直径「三寸」だから、そんなに大きくはない。だが、すでに餅はカチンカチンに固くなっているから、相当に手強い相手だ。鏡開は「鏡割」ともいうように、餅を刃物で切ることを忌み、槌などを用いて割る。力と気合いが必要だ。句の場合は、ましてや非力の女性が割るのだから、どうしても「膝構ふ」という姿勢になってしまう。鏡開の直前のスナップ・ショットとして、秀逸な一句だ。軽い滑稽味も出ている。一方、村上鬼城には「相撲取の金剛力や鏡割」があって、こちらはまことに豪快で頼もしい。素手で割っているのだ。作者は、その見事さに賛嘆し感嘆し、呆れている。今年の我が家は鏡餅を飾らなかった。というか、うかうかしているうちに飾りそこねた。したがって、当然の報いとして、今夜のお汁粉はなしである。SIGH !(清水哲男)




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