伊藤聚さんの前夜式(通夜)に行ってきました。たくさんの詩人たちに会いました。




1999ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1111999

 三寸のお鏡開く膝構ふ

                           殿村菟絲子

方差もあるが、全国的には一月十一日に鏡開を行うところが多い。最近では住宅事情もあり、あまり大きな鏡餅を飾る家は少なくなってきた。テレビの上に乗るほどの小さなものが好まれている。句の鏡餅も直径「三寸」だから、そんなに大きくはない。だが、すでに餅はカチンカチンに固くなっているから、相当に手強い相手だ。鏡開は「鏡割」ともいうように、餅を刃物で切ることを忌み、槌などを用いて割る。力と気合いが必要だ。句の場合は、ましてや非力の女性が割るのだから、どうしても「膝構ふ」という姿勢になってしまう。鏡開の直前のスナップ・ショットとして、秀逸な一句だ。軽い滑稽味も出ている。一方、村上鬼城には「相撲取の金剛力や鏡割」があって、こちらはまことに豪快で頼もしい。素手で割っているのだ。作者は、その見事さに賛嘆し感嘆し、呆れている。今年の我が家は鏡餅を飾らなかった。というか、うかうかしているうちに飾りそこねた。したがって、当然の報いとして、今夜のお汁粉はなしである。SIGH !(清水哲男)


January 1011999

 抵抗を感ずる熱き煖炉あり

                           後藤夜半

のもてなしとは難しいものだ。寒い日に作者を迎えたので、この家では暖炉に盛大に薪を投じてもてなしたのだろう。ところが、作者は熱くてかなわないと抵抗を感じている。かといって、せっかくの好意なので口に出すわけにもいかず、小さな苛立ちを覚えている。いまや暖炉でのもてなしは贅沢な感じになってしまったが、ガスや電気器具での暖房でも、こういうことはちょくちょく起きる。困ってしまう。ところで、句の「抵抗を感ずる」という表現に、それこそ抵抗を感じる読者もいるにちがいない。あまりにもナマな言葉だからだ。はじめて読んだときには、私もそう感じたけれど、だんだんこのほうが面白いと思うようになってきた。ナマな言葉でズバリと不快感をあらわしているだけに、かえってそのことを口に出せない作者の焦燥が、客観的にユーモラスに読者に伝わってくると思えるからである。内心で大いに怒り力んでいるわりには、表面は懸命にとりつくろっている。この本音とたてまえの落差を導きだしているのは、やはり「抵抗を感ずる」というナマな言葉の力であろう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


January 0911999

 風呂吹にとろりと味噌の流れけり

                           松瀬青々

も上手いが、この風呂吹大根もいかにも美味そうだ。「とろりと」が、大いに食欲をそそってくる。あつあつの大根の上の味噌の色が、目に見えるようである。松瀬青々は大阪の人。正岡子規の弟子であった。大阪の風呂吹は、どんな味噌をかけるのだろうか。東京あたりでは、普通は胡麻味噌か柚子味噌を使うが、生姜味噌をかけて食べる地方もあるそうだ。私は柚子味噌派である。いずれにしても、大根そのものの味を生かした料理だけに、子供はなかなか好きになれない食べ物の一つだろう。大人にならないと、この深い味わい(風流味とでも言うべきか)はわかるまい。ところで、「風呂吹」とは奇妙なネーミングだ。なぜ、こんな名前がついているのか。どう考えても、風呂と食べ物は結びつかない。不思議に思っていたところ、草間時彦『食べもの歳時記』に、こんな解説が載っているのを見つけた。「風呂吹の名は、その昔、塗師が仕事部屋(風呂)の湿度を調整するために、大根の煮汁の霧を吹いたことから始まるというが、いろいろの説があってはっきりしない」と。『妻木』所収。(清水哲男)




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