1999N1句

January 0111999

 元日や手を洗ひをる夕ごころ

                           芥川龍之介

日に晴朗の気を感ぜずに、むしろ人生的な淋しさを感じている。近代的憂愁とでも言うべき境地を詠んでおり、名句の誉れ高い作品だ。世間から身をずらした個としての自己の、いわば西洋的な感覚を「夕ごころ」に巧みに溶かし込んでいて、日本的なそれと融和させたところが最高の手柄である。芭蕉や一茶などには、思いも及ばなかったであろう世界だ。ただし、芥川の手柄は手柄として素晴らしいが、この句の後に続々と詠まれてきた「夕ごころ」的ワールドの氾濫には、いささか辟易させられる。はっきり言えば、この句以降、元日の句にはひねくれたものが相当に増えてきたと言ってもよさそうだ。たとえば、よく知られた西東三鬼の「元日を白く寒しと昼寝たり」などが典型だろう。芥川の作品にこれでもかと十倍ほど塩だの胡椒だのを振りかけたような味で、三鬼の大向こう受けねらいは、なんともしつこすぎて困ったものである。「勝手に寝れば……」と思ってしまう。そこへいくと、もとより近代の憂いの味など知らなかったにせよ、一茶の「家なしも江戸の元日したりけり」のさらりと哀楽を詠みこんだ骨太い句のほうが数段優れている。つまり、一茶のほうがよほど大人だったということ。(清水哲男)


January 0211999

 初髪の尻階段をのぼりゆく

                           柳家小三治

髪は、新年はじめて結い上げられた髪のこと。主として島田など日本髪を言う。襟足も美しく和服姿と調和して、男どもは目の保養をする。中年の初髪も凛としてよいものだが、やはり若い女性の匂い立つような風情は絶品だ。この姿を素直に詠めば、たとえば「初髪の娘がゆき微風したがへり」(柴田白葉女)というところだろうが、作者は落語家らしく(いや「男らしく」と言うべきか)、ちょいとひねってみせた。地下鉄の階段かエスカレーターか、あるいはデパートのそれであろうか。作者の目の前に、初髪の女性の大きなお尻がのぼってゆくというわけで、これまた絶景なれども、いささか鼻白む。と同時に、なんだか嬉しいような気もする。正月風景のスナップ句に、かくのごときローアングルを持ってきたところが愉快だ。柳家小三治は、ここ十年ほどの落語界のなかでは私が最も好きな人で、やがて名人と言われるようになる器だと思う。高座の面構えもいいし、彼の話芸には客に媚びる下品さが微塵も感じられない。かといって名人面をぶら下げているわけでもなく、自然体なのだ。この句においても、また然り。一つ間違えれば下品になるところを、水際で自然にすっと本能的に体をかわしている。すなわち、楽しき人徳の句なのである。作者は昭和十四年(1939)己卯生まれ。年男だ。「うえの」(1999年1月号)所載。(清水哲男)


January 0311999

 懐手三日の客の波郷かな

                           桐生あきこ

田波郷ファンにとっては、垂涎の的の一句だろう。なにしろ正月三日に、波郷が訪ねて来たのが作者の家だったのだから……。大串章主宰の俳誌「百鳥」に「ひろば」という会員の親睦的な通信欄があり、今年(1999)の一月号に思い出とともに載せられていた。作者のコメント。「波郷先生は三日礼者ではない。朝来てずっと夜までいらっしゃる。紺絣のお対を短めに着て、店の隣の玄関からぬーっと入って来られる。トレードマークの懐手で……」。店というのは理髪店。そこで仕事をしていたのは、これまた俳句の名手であった石川桂郎である。で、妹さんがこの句の作者というわけだ。作句の年代は不詳だが、昭和十年代と思われる。古来正月三日は最もめでたい日とされ、昔の皇室では「元始祭」が行われたことから、国家の祭日であった。正月三日間を今でも休む風習は、昔の祭日が三日にもあったことの名残りだろう。そういうことでもなければ、元日だけを休んで、西洋流に二日から働くことにしても一向に構わないわけである。現に、商売人にとっての「二日」は仕事始だ。休日については、存外、こうした昔の息を引き継いでいる日が多い。ま、そんなことはともかく、句の「三日」の波郷も作者も、きっと楽しかったのでしょうね。(清水哲男)


January 0411999

 東山静かに羽子の舞ひ落ちぬ

                           高浜虚子

都東山。空は抜けるように青く、ために逆光で山の峰々はくろぐろとしている。そんな空間のなかに高くつかれた五色の羽子(はね)が、きらきらと日を受けて舞い落ちてくる。それも、静かにしずかにと落ちてくる。息をのむような美しいショットだ。羽子つきをしているのは、書かれてはいないけれど、子供ではなくて若い女性でなければならない。地上に女性たちのはなやいだ構図があってはじめて、作者は目を細めながら空を見上げたのだから……。いかな京都でも、今ではもうこんな情景はめったに見られないだろう。古きよき時代に、京都をこよなく愛した虚子の、これはふと漏らした吐息のような京都讃歌であった。読むたびに「昔の光、いまいずこ」の感慨に襲われる。そういえば、ひさしく京都にもご無沙汰だ。新しい京都駅も見ていない。学生時代、いっしよに下宿していた友人の年賀状に「下宿のおばさんが老齢で入院中」とあった。おばさんは、長唄のお師匠さんだった。当時(1960年頃)の私たちは、階下の三味線を耳にしながら、颯爽と「現代詩」などを書いていたのである。三味線の伴奏つきで詩を書いた人は、そんなにいないだろう。(清水哲男)


January 0511999

 初詣一度もせずに老いにけり

                           山田みづえ

語にもなっているが、女礼者(おんなれいじゃ)という言い方がある。単に礼者といえば、年頭の挨拶を述べにくる客のことだ。が、わざわざ「女礼者」と呼んだのは、とくに昔の主婦の三が日はそれこそ礼者の応対に追われて挨拶まわりどころではないので、四日以降にはじめて外出し、祝詞を述べに行くところからであった。したがって、元日の初詣に、まず行ける主婦は少なかった。おそらく作者のように、一度も初詣に行かないままに過ごしてきた年輩の女性は、いまだに多いのではなかろうか。句の姿からは、べつにそのことを恨みに思っていたりするようなこともなく、気がついたらそういうことだったという淡々たる心境が伝わってくる。そこが良い。かくいう私は男でありながら、一度だけ明治神宮なる繁華な神社に行ったことがあるだけで、後にも先にも、その一度きり。人混みにこりたせいもあるけれど、あのイベント的大騒ぎは好きになれない。淑気も何もあったものではない。もとより私の立場と作者とは大違いだが、そんなところに作者が行けないでいて、むしろよかったのではないか。この句に接してふと思ったのは、そういうことであった。「俳句」(1999年1月号)所載。(清水哲男)


January 0611999

 小説を立てならべたる上に羽子

                           高野素十

月休みが終わって、孫たちも引き上げてしまった。小さい子はにぎやかだから、いればいたでやかましいと思うときもあるが、いなくなると火の消えたような淋しさが残る。いまごろはどうしているかなと、時々思ったりする。そんなある日、本でも読もうかと書棚を探していたら、並べてある小説本(めったに読まない本だから、きれいに整列したままなのだ)の上に、ひっそりと置かれた羽子を見つけた。孫の忘れ物だ。このとき、作者はそっとその羽子を手に取って一瞬微笑を浮かべただろう。ただそれだけのことではあるが、句からは作者の慈眼がしみじみと伝わってくる。詩歌集の類ではなく、小説本の上にあったところにも味わいがある。小説本には、さまざまな人々のさまざまな人生や生活が具体的に描かれているからで、句は言外に、そのとき孫の行く末までをもちらりと想像した作者の心の動きを伝えているようだ。とまれ、作者には、いつもの静かな生活が戻ってきた。また会える日まで、とりあえずこの羽子は、書棚の隙間に元どおりそのままに置いておくことにしよう……。『雪片』(1952)所載。(清水哲男)


January 0711999

 人日の夜の服寝敷く教師たり

                           淵脇 護

ずは、お勉強(笑)。人日(じんじつ)とは一月七日のことを言うが、なぜなのか。いまどきの句にも、よく出てくる。わからないときには、辞書を引く。でも、小さい辞書だと「一月七日のこと」としか書いてない。そこで、重たくてイヤだけど、大きな辞書を引いてみる。だが、広辞苑でも大辞林でも、満足のいく解答は得られない。そこで、「人日」は現代語としては死語に近い言葉だと知る。これもまた、お勉強の内だ。もはや「俳句ギョーカイ」の用語だなと見当をつけて歳時記をめくると、どんな歳時記にも、はたせるかな、ちゃんと定義が書いてある。詳しい説明は省くが、すなわち「中国漢代に六日までは獣畜を占い、七日に人を占ったことからの名」なのだそうである。中国の占いでは、正月七日にして、はじめて人間を注視したということだ。最初の「人の日」だった。したがって、明日八日からの新学期にそなえて、教師が服の寝敷きをするという句に、ことさらに「人日」が使われているのもうなずける。学園という人の社会に出ていくためのマナーとしては、まず身なりを整える必要がある。教師であることを忘れて過ごせた正月七日までは、同時に社会人を忘れた期間でもあった。「寝敷き(寝押し)」は慎重を要する。「寝敷き」の夜には、すでに「人の社会」がじわりと関わってきている。(清水哲男)


January 0811999

 おのが影ふりはなさんとあばれ独楽

                           上村占魚

楽もすっかり郷愁の玩具となってしまった。私が遊んだのは、鉄棒を芯にして木の胴に鉄の輪をはめた「鉄胴独楽」だったが、句の独楽は「肥後独楽」という喧嘩独楽だ。回っている相手の独楽に打ちつけて、跳ねとばして倒せば勝ちである。「頭うちふつて肥後独楽たふれけり」の句もある。形状についての作者の説明。「形はまるで卵をさかさに立てたようだが、上半が円錐形に削られていて、その部分を赤・黄・緑・黒で塗りわけられている。外側が黒だったように記憶する。この黒の輪は他にくらべて幅広に彩られてあった。かつて熊本城主だった加藤清正の紋所の『蛇の目』を意味するものであろうか。独楽の心棒には鏃(やじり)に似た金具を打ちこみ、これは相手の独楽を叩き割るための仕組みで、いつも研ぎすまされている」。小さいけれど、獰猛な気性を秘めた独楽のようだ。ここで、句意も鮮明となる。「鉄胴独楽」でも喧嘩はさせた。夕暮れともなると、鉄の輪の打ち合いで火花が散ったことも、なつかしい思い出である。昔の子供の闘争心は、かくのごとくに煽られ、かくのごとくに解消されていた。ひるがえって現代の子供のそれは、多く密閉されたままである。『球磨』(1949)所収。(清水哲男)


January 0911999

 風呂吹にとろりと味噌の流れけり

                           松瀬青々

も上手いが、この風呂吹大根もいかにも美味そうだ。「とろりと」が、大いに食欲をそそってくる。あつあつの大根の上の味噌の色が、目に見えるようである。松瀬青々は大阪の人。正岡子規の弟子であった。大阪の風呂吹は、どんな味噌をかけるのだろうか。東京あたりでは、普通は胡麻味噌か柚子味噌を使うが、生姜味噌をかけて食べる地方もあるそうだ。私は柚子味噌派である。いずれにしても、大根そのものの味を生かした料理だけに、子供はなかなか好きになれない食べ物の一つだろう。大人にならないと、この深い味わい(風流味とでも言うべきか)はわかるまい。ところで、「風呂吹」とは奇妙なネーミングだ。なぜ、こんな名前がついているのか。どう考えても、風呂と食べ物は結びつかない。不思議に思っていたところ、草間時彦『食べもの歳時記』に、こんな解説が載っているのを見つけた。「風呂吹の名は、その昔、塗師が仕事部屋(風呂)の湿度を調整するために、大根の煮汁の霧を吹いたことから始まるというが、いろいろの説があってはっきりしない」と。『妻木』所収。(清水哲男)


January 1011999

 抵抗を感ずる熱き煖炉あり

                           後藤夜半

のもてなしとは難しいものだ。寒い日に作者を迎えたので、この家では暖炉に盛大に薪を投じてもてなしたのだろう。ところが、作者は熱くてかなわないと抵抗を感じている。かといって、せっかくの好意なので口に出すわけにもいかず、小さな苛立ちを覚えている。いまや暖炉でのもてなしは贅沢な感じになってしまったが、ガスや電気器具での暖房でも、こういうことはちょくちょく起きる。困ってしまう。ところで、句の「抵抗を感ずる」という表現に、それこそ抵抗を感じる読者もいるにちがいない。あまりにもナマな言葉だからだ。はじめて読んだときには、私もそう感じたけれど、だんだんこのほうが面白いと思うようになってきた。ナマな言葉でズバリと不快感をあらわしているだけに、かえってそのことを口に出せない作者の焦燥が、客観的にユーモラスに読者に伝わってくると思えるからである。内心で大いに怒り力んでいるわりには、表面は懸命にとりつくろっている。この本音とたてまえの落差を導きだしているのは、やはり「抵抗を感ずる」というナマな言葉の力であろう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


January 1111999

 三寸のお鏡開く膝構ふ

                           殿村菟絲子

方差もあるが、全国的には一月十一日に鏡開を行うところが多い。最近では住宅事情もあり、あまり大きな鏡餅を飾る家は少なくなってきた。テレビの上に乗るほどの小さなものが好まれている。句の鏡餅も直径「三寸」だから、そんなに大きくはない。だが、すでに餅はカチンカチンに固くなっているから、相当に手強い相手だ。鏡開は「鏡割」ともいうように、餅を刃物で切ることを忌み、槌などを用いて割る。力と気合いが必要だ。句の場合は、ましてや非力の女性が割るのだから、どうしても「膝構ふ」という姿勢になってしまう。鏡開の直前のスナップ・ショットとして、秀逸な一句だ。軽い滑稽味も出ている。一方、村上鬼城には「相撲取の金剛力や鏡割」があって、こちらはまことに豪快で頼もしい。素手で割っているのだ。作者は、その見事さに賛嘆し感嘆し、呆れている。今年の我が家は鏡餅を飾らなかった。というか、うかうかしているうちに飾りそこねた。したがって、当然の報いとして、今夜のお汁粉はなしである。SIGH !(清水哲男)


January 1211999

 ほそぼそと月に上げたる橇の鞭

                           飯田蛇笏

橇(ばそり)だろう。犬に曵かせる橇もあるにはあるが、この場合は馬でないと絵にならない。大きな月を背景にして、ひょろりと上がったしなやかな鞭の様子は、さながら昭和モダンの白黒で描かれたイラストレーションの世界を見るようだ。実景かもしれないが、この句から人馬の息づかいは感じられない。むしろ、夜の馬橇の出発は、このようにあってほしいという作者の願望が生んだ想像上の句と読むほうが楽しい。フォルム的にも完璧で、寒夜一瞬の静から動への転移の美しさを定着してみせた技ありの句だ。もちろん、あたりは月明に映えた一面の銀世界である。雪の多い山陰地方で育った私には、懐しい光景と写る。橇とはいっても、いわゆる観光用の美々しい仕立てのものではなくて、伐採した材木を運搬するための粗末な代物でしかなかったけれど、雪の上を飛ぶように滑っていくあの感触は、自動車の乗り心地などとはまた別種の快感に浸れる乗り物であった。サンタクロースの橇は空を飛んで来るが、あれは橇に乗っている感覚からすると、嘘ではない。橇は、空を飛ぶように走る乗り物なのである。(清水哲男)


January 1311999

 亡きものはなし冬の星鎖をなせど

                           飯田龍太

は「さ」と読ませる。若き日の龍太の悲愴感あふれる一句。「亡きもの」とは、戦争や病気で逝った三人の兄たちのことであろうが、その他の死者を追慕していると考えてもよい。天上に凍りついている星たちには、いつまでも連鎖があるけれど、人間世界にはそのような形での鎖はないと言うのである。「あってほしい」と願っても、しょせんそんな願いは無駄なことなのだ。と、作者はいわば激しく諦観している。よくわかる。ただ一方で、この句は二十代の作品だけに、いささか理に落ち過ぎているとも思う。大きく張った悲愴の心はわかるが、それだけ力み返っているところが、私などにはひっかかる。どこかで、俳句的自慢の鼻がぴくりと動いている。意地悪な読み方かもしれないが、感じてしまうものは仕方がない。厳密に技法的に考えていくと、かなり粗雑な構成の句ということにもなる。そして、表現者にとって哀しいのは、若き日のこうした粗雑な己のスタイルからは、おそらく生涯抜け出られないだろうということだ。このことは、私の詩作者としての限界認識と重なっている。俳壇で言われるほどに、私は龍太を名人だとは思わない。名人でないところにこそ、逆にこの人のよさがあると思っているし、作者自身も己の才質はもとより熟知しているはずだ。『百戸の谿』(1954)所収。(清水哲男)


January 1411999

 縄とびの寒暮いたみし馬車通る

                           佐藤鬼房

の日の夕方。ちゃんちゃんこを着た赤いほっぺの女の子が、ひとり縄跳び遊びをしている。そのかたわらを大きく軋みながら、古ぼけた馬車が通っていった。女の子も無言なら、馬車の男も無言である。いかにも寒々とした光景だ。が、田舎育ちの私には、いつかどこかで見たような懐しくも心暖まる光景に感じられる。この光景には、たしかに寒気は浸みとおっているけれど、人の心には作者も含めて微塵の寒々しさもない。この句を、ことさらに作者の貧困生活と結びつけて解釈するムキもあるようだが、私は採らない。昔から繰り返されてきたであろう同一のシチュエーションを、それこそことさらにこのように詠むことで、作者はこのときむしろ貧困などは忘れてしまっている。田舎のごく普通の光景に、ふっと溶け込んでいるというのが、句の正体ではあるまいか。古ぼけた馬車と縄跳びの女の子は、いつに変わらぬ我が田舎の冬場の象徴として置かれているのであり、その永遠的な存在感は我が個的な事情を楽々と越えているのだ。たとえば「あなたの田舎はどんなふうですか」と問われて、率直に答えるときのサンプル句のようだと言っても言い過ぎではあるまい。そんなふうに、私には思える。『夜の崖』(1955)所収。(清水哲男)


January 1511999

 女正月一升あけて泣きにけり

                           高村遊子

日からの大正月を男正月とするのに対し、十五日を中心とする小正月を女正月という。二十日とする地方もあるようだ。いずれにしても、正月の接客や家事の多忙から解放された女たちをねぎらう意味で、男どもが発案したもう一つの正月である。女だけで集まり昼夜を通して酒盛りをする地方もあると、モノの本に出ていた。この句は、そんな酒宴の果てを詠んだものだろう。ほろ酔い気分で笑いさざめくうちに、だんだんと座は愚痴の連発大会と化し、ついには大泣きする女が出たところでお開きとなる。毎年のことだと作者は苦笑しつつも、片頬には微笑も浮かんでいる。男にしろ女にしろ、特別な日の酒の上での失敗は、このように許されてきた。今日、成人式の後での飲み会でひっくり返るお嬢さん方も、後を絶たない。ま、ほどほどに願いましょう。ところで、こんな具合に「女正月」を祝う風習は、もうとっくのとうに廃れてしまったと思っていたが、最近四国在住の女性の読者から「女正月が楽しみ」というメールをいただいた。となれば、廃れてしまったのは東京など一部の地域であって、全国的にはまだ健在ということなのだろうか。女正月の解説などは不要であったかもしれない。(清水哲男)


January 1611999

 貧乏は幕末以来雪が降る

                           京極杞陽

る雪と貧乏との取り合わせは、人間の堪える姿勢に共感が得られることから、人気句が多い。ただし、同じ貧乏とはいえ、句のように「幕末以来慣れてるよ、平気だよ」と啖呵を切られると、少しく事情は異なってくる。昭和二十年代後半の作品だから、リアル・タイムで読んだ読者は、おそらくキョトンとしたことだろう。とにかく「幕末」が利いている。怒涛のようにアメリカ仕込みの民主主義の流れが日本中を席捲しているときに、まさか「幕末」もないであろうに……。作者は、世が世であれば、豊岡藩主十四代当主であった人だ(明治四十一年生まれ)。関東大震災のときに、一人の姉を残して家族全員と死別している。そして、敗戦。したがって、この「幕末」という言葉は付け焼き刃ではない。ちゃらちゃらとアメリカに靡いていく連中に、かなわぬながらも一矢報いたいという気持ちが、血筋につながる「幕末」という、時代に遅れた刃の切っ先を閃かしたのであろう。ただ同時期の句に、いかにも家庭的な「そろばんへ四男と五男雪道を」「英語へは二男三男雪道を」が残っている。「幕末以来」という貧乏のレベルのほどがわかる。当時の庶民は、子供をそろばんや英語に通わせる家庭をさして「貧乏」とは言わなかった。でも、この句はこれでいいのである。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


January 1711999

 雪の朝二の字二の字の下駄のあと

                           田 捨女

の朝。表に出てみると、誰が歩いていったのか、下駄の跡が「二の字二の字」の形にくっきりと残っている……。清新で鮮やかなスケッチだ。特別な俳句の愛好者でなくとも、誰もが知っている有名な句である。しかし、作者はと問われて答えられる人は、失礼ながらそんなに多くはないと思う。作者名はご覧のとおりだが、古来この句が有名なのは、句の中身もさることながら、作者六歳の作句だというところにあった。幼童にして、この観察眼と作句力。小さい子が大人顔負けのふるまいをすると、さても神童よともてはやすのは今の世も同じである。そして確かに、捨女は才気かんぱつの女性であったようだ。代表句に「梅がえはおもふきさまのかほり哉」などがある。六歳の句といえば、すぐに一茶の「われと来て遊べや親のない雀」を思い出すが、こちらは一茶が後年になって六歳の自分を追慕した句という説が有力だ。捨女(本名・ステ)は寛永十年(1633)に、現在の兵庫県柏原町で生まれた。芭蕉より十一年の年上であるが、ともに京都の北村季吟門で学んでいるので出会った可能性はある。彼らが話をしたとすれば、中身はどんなものだったろうか。その後、彼女は四十代で夫と死別し、七回忌を経て剃髪、出家し、俳句とは絶縁した。(清水哲男)


January 1811999

 いきながら一つに冰る海鼠哉

                           松尾芭蕉

禄六年(1693)の作。亡くなる前年の句ということになるが、それより五年前の貞享五年(途中から元禄元年)とする説もある。いずれにしても、芭蕉晩年の軽みの境地を示す。魚屋の店先だろうか。海鼠(なまこ)が入れられた桶をのぞくと、張ってある水が寒さのために凍っている。当然、入れられているいくつかの海鼠も冰(こお)りついており、そのせいでいくつ入っているのか区別もつかない。なんとなく「一つ(一体)」のように見えてしまうのである。それも「いきながら」であるから、海鼠のグロテスクな形状と合わせてちょっぴり笑ってしまうのだが、しかし同時に、笑うだけではすまされない哀れの感情もわいてくる。この句に関連して「俳句朝日」(1999年2月号)に出ている廣瀬直人の付言は、実作者に目を開かせる。「句を作る場合には、見える表現をとか、よく見て写生をなどと言われるが、理屈はとにかくとして、この掲句のように、まず、いかにも『海鼠』らしいと感じさせることが基本になる」。なるほど、いかにも芭蕉の見たこの「海鼠」は「海鼠」らしいではないか。蛇足ながら、句尾の「哉」は「かな」と読む。(清水哲男)


January 1911999

 白菜やところどころに人の恩

                           阿部完市

んだろうね、これは。どういう意味なのか。阿部完市の句には、いつもそんな疑問がつきまとう。でも、疑問があるからといって、答えが用意されているような句だとも思えない。そういうことは、読み下しているうちにすぐにわかる。そのあたりが、好きな人にはこたえられない阿部句の魅力となっている。この白菜にしたところで、どんな状態の白菜なのか。作者は何も説明しようとはしていない。要するに、単なる「白菜」なのだ。「人の恩」についても同断である。そこで妙なことを言うが、この句の面白さは「ねえねえ、白菜ってさァ、見てるとさァ、だんだんこんな感じになってくるじゃんよぉ……」という女子高生みたいな口調の感想に集約するしかない、そんなところにあるのだと思う。白菜か白菜畑か、見ているうちに作者はふと「人の恩」というものに、たしかに白菜に触発された格好で思い当たったのだ。その確かさを、直裁に読者に伝えようとしている。同じ冬の野菜でも、対象が大根や人参であったとしたら、たぶん「人の恩」には行きつかなかっただろう。……などなどと、読者に数々の素朴な疑問を生じさせておいては、結果的には句のようであるとしか思わせない説得力が、一貫して阿部句の方法の中核にはある。『阿部完市全句集』(1984)所収。(清水哲男)


January 2011999

 らあめんのひとひら肉の冬しんしん

                           石塚友二

ーメンを「らあめん」と書き、チャーシューを「ひとひら肉」と書いて、寒い日にラーメンを食べる束の間のまろやかな至福感を表現している。作者が食べているのはどんなラーメンかと想像して、たぶん日本蕎麦屋や饂飩屋などのメニューに、ついでのように載っている種類のものだろうと思った。ホウレンソウの緑が濃く、絶対に入っているのがナルトである。麺の量は少なく、メンマも多くない。蕎麦仕立て風ラーメンとでも言うべきか。いまでも、たまにお目にかかることがあるが、これがなかなか美味いのである。味が鋭くないだけに、ほんわかとした気分が楽しめる。そんな店に座っていると、元気よくガラス戸を開けて子供が学校から帰ってきたりする。これで暖房がストーブだったら申し分ないのだが、さすがに今では望むべくもないだろう。こうした店で、もう一つ美味いのがカレーライスだ。妙に黄色かったりするけれど、あの安っぽい色彩がなんとも言えないのである。ただ、不思議に思うのは、必ずスプーンがコップの水に漬けられて出てくることだ。何故なのだろうか。この水は飲んでもよいのかと、いつも戸惑いながら、結局は飲んでしまう。(清水哲男)


January 2111999

 声にせば覚えてをりぬ手鞠唄

                           大橋淑子

葉の運びが窮屈で、そこがとても惜しまれる句であるが、人の記憶のありかたについて貴重なことを言っている。作者の弁。「友達と童謡を歌っていた時のこと。てまりが殿様のおかごの屋根に揺られ紀州のみかんになった手鞠唄、全部覚えていたのです。子ども時代の歌、なつかしいです」。遠い子供の日々に、毬つき遊びをしながら覚えた歌だ。童謡『まりととのさま』は結構長いので、まさか全部を覚えているはずもないだろうと、とりあえず友達と声に出して歌ってみたら、あら不思議、二人ともすらりと全部歌えてしまったというのである。びっくりだ。嬉しかった。人の記憶にはあやふやなものが多いけれど、このように身体の動きと一緒に記憶したことだけは、なかなか抜けないようだ。歌だけを覚えているのではなくて、身振り手振りすべてが記憶のなかで連鎖しているからだ。つまり、記憶を呼び起こすキーがたくさんあるわけだ。だから、声に出すことがきっかけとなって、苦もなく歌えたのである。手鞠のように全身を使わなくとも、たとえば教室で音読させられた詩などが、ときに意味もなく口をついて出てきたりするのも、同種の記憶構造に仕込まれた引き金によるものだろう。俳誌「未来図」(1999年1月号)所載。(清水哲男)

[上記の解釈について京都大学の田中茂樹氏(認知神経心理学)より以下のご教示をいただきました] 記憶には「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」という大きくわけて2種類のものがある、と言われております。宣言的記憶とは、覚えている俳句であるとか、昨日体験した出来事であるとか、簡単に言えば「口で説明できる記憶」です。非宣言的記憶とは、車の運転やスポーツなど、「口では説明できなくても動作で手順として覚えている事柄」であります。手続き記憶とよばれる記憶もこれに属します。歌や道順などは手続き記憶です。一時に全部は思い浮かべられないが動作の連続として再生はできます。なお脳にとっては言葉も動作もカテゴリーとしては同じ「運動」です。これらの記憶は蓄えられている場所も取り出し方も違います。 宣言的な記憶は海馬と呼ばれる部位が中心になって蓄えられており、本人が積極的に検索して取り出してきます。一方、手続き記憶などは様々な大脳皮質や小脳に分散して蓄えられており、ひとつの動作や想起から芋蔓式に取り出されてきます。学習も取り出しもたいていの場合は自動的です。海馬が損傷された患者さんでも歌は歌えることが多いのはこのためです。この俳句に即して言えば、とても思い出せないだろう、と作者が考えたのは宣言的記憶として頭の中に言語的に再生しようとしてもできないだろうという直感でそれは正しいといえます。実際に歌ってみた場合は、動作の連関として蓄えられていた手続き記憶=歌詞が出てきたものと思われます。 ...このように身体の動きと一緒に記憶したことだけは、なかなか抜けないようだ....と書いておられますが、言語そのものも運動=身体の動きです。私たちがMRIという装置研究した結果では発語しなくても字を見るだけで、大脳の運動言語中枢(言葉を話す中枢)は活動します。また道具の絵を見るだけで、それを使うのに関係する筋肉に指令を出す部分は活動します。むしろそのような仮想的な、脳の中での運動そのものが、物体を認知する、ということそのものであろう、とごく最近の大脳研究では考えられ始めています。まとまりが悪くなりましたが、体を使ったから記憶できた、というのは一部正しい意見だと思います。が、より正確には、歌詞は手続き記憶である。手続き記憶は(運転でカーブするとき のように)口で簡単には説明できない。しかしやってみると(歌の場合は歌ってみると)簡単である。運動の連続として体験などの記憶とは別の場所に蓄えられているからである。ただ自分自身でも手続き記憶の全貌を意識レベルで正確に捉えることは不 可能である(あいまいには可能である)。よって、この句の作者は、全部歌えないか なー、と考えたが歌ってみるとできた、さらに自分で驚いた、のであろう。というかんじでしょうか。


January 2211999

 冬の水一枝の影も欺かず

                           中村草田男

草田男の筆跡
草田男の筆跡
田男の代表句。「一枝」は「いっし」と読ませる。池か河か、澄み切った水面が、張りだした枯れ木の枝々を、「一枝」も洩らすことなく克明に映し出している。寒いとも冷たいとも書かれてはいないが、読む者には厳寒の空気がぴりりと伝わってくる。写生に徹することにより至り得た名句。国語の答案であれば、ここまで書いておけばまずは合格点だろうけれど、友人の松本哉が「欺かず」についてさらに考察を加えたことがある。彼が発見したのは、冬の水の位置と作者の視点との関係である。作者は水に映る枯れ枝と本物の枯れ枝とを、いわば横から眺めている。ところが、本物の枯れ枝のほうは確かに横から見ているのだが、水に映ったそれは横から見ていることにはならない。なぜなら、水面は作者が仰向けになって下から枯れ枝を見る視点を提供しているからだ。すなわちここで、作者は複数の視点から一つの景色を眺めていることになるわけだ。この複数の視点があってはじめて、横から見ただけでは判然としない細かい枝々の様子を見ることができる。「欺かず」とは、そうした普通では見えない姿を教えてくれる意味なのだと、松本君はとらえた。なるほど、さすがに物理の徒ならではの鑑賞ぶりだ。脱帽。まいった。『長子』(1937)所収。(清水哲男)


January 2311999

 茶碗酒どてらの膝にこぼれけり

                           巌谷小波

てら(褞袍)を関西では丹前(たんぜん)と言うが、よく旅館などに備えてある冬場のくつろぎ着である。いかにも「どてーっ」としているから「どてら」。……と、これは冗談だが、巌谷小波(いわや・さざなみ)の活躍した明治時代から戦後しばらくにかけては、冬季、たいていの男が寝巻の上などに家庭で着ていた防寒着だ。そんな褞袍の上に、作者はくつろいで一杯やっていた茶碗酒をこぼしてしまった。句の眼目は「こぼれけり」にある。迂闊(うかつ)にも「こぼしけり」というのではなくて、「こぼれけり」という自堕落を許容しているような表現に、作者の悲哀感がにじみでている。小波は、有名な小説家にして児童文学者。ただし、有名ではあったけれど、明治の文学者の社会的地位はよほど低かった。戦後しばらくまでの漫画家のそれを想起していただければ、だいたい同じ感じだろう。今でこそ子供が小説家や漫画家を目指すというだけで周囲も歓迎するが、明治より昭和の半ばまでは、とんでもないことだと指弾されたものだ。詩人についてはもっと厳しかったし、今でも厳しい(苦笑)。だから作者は「どうせ俺なんか」と「こぼれた」酒を拭おうともせずに、すねて眺めているのである。『ささら波』所収。(清水哲男)


January 2411999

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日」とある。戦争中だった。当時、富山在住の作者は五十九歳。妻を亡くした翌日の吟だから、ほとんど自然に口をついて出てきた一句であろう。身構えもなければ、熟慮の跡もない。それだけに、つい昨日まで作者に話しかけていた妻の声が、私たち読者にも聞こえるような、そんな臨場感が伝わってくる。何事もなかったかのように降る雪の、昨日とかわらぬ白さが、いまさらながら目にしみるようだ。幸運なことに、私にはこの喪失感を真に味わえる体験はないのだけれど、この淡々とした句のなかに、しかし男のうろたえた気配というものだけは知覚できる気がする。句のどこにそれを感じるかと問われると困ってしまうが、一気に、しかし静かに吐き出された感慨のなかの皮膚感覚の欠落ぶりにおいて、そんな気がするということである。茫然の感覚には、生きながら死んでいるような無自覚さがあるだろうからだ。したがってこの句は、亡き妻を追悼しているというよりも、みずからの気を確かに保つためのそれのように写るのである。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


January 2511999

 寒の坂女に越され力抜け

                           岸田稚魚

体が弱っているのに、寒さのなかを外出しなければならぬ用事があり、きつい坂道を登っていく。あえぎつつという感じで歩いていると、後ろから来た女に、いとも簡単についと抜かれてしまった。途端に、全身の力が抜けてしまったというシーン。老人の句ならばユーモラスとも取れようが、このときの稚魚はまだ三十歳だった。かつての肺結核が再発した年であり、若いだけに体力の衰えは精神的にも悔しかったろう。それを「女に越され」と、端的に表現したのだ。以後に書かれたおびただしい闘病の句は、悲哀の心に満ちている。「春の暮おのれ見棄つるはまづわれか」。裏を返せば、このようなときにまず恃むのはおのれ自身でしかないということであり、この覚悟で稚魚は七十歳まで生きた。没年は1988年。私なりの見聞に従えば、男は総じて短気な感じで死んでしまう。あきらめが早いといえばそれまでだが、なにかポキリと折れるような具合だ。寝たきりになるのも、男のほうが早い。這ってでも、自分のことは自分でやるという根性に欠けている。心せねばなりませぬな、ご同輩。『雁渡し』(1951)所収。(清水哲男)


January 2611999

 離鴛鴦流れてゆきぬ鴛鴦の間

                           矢島渚男

鴦(おしどり)は留鳥だから、山間の湖や公園の池などで一年中見ることができるが、俳句では冬の鳥としている。周囲の枯れ色に比して、雄の色彩が鮮やかで目立つことからだろう。習性としては、常に「つがい」で行動する。まさに「おしどり夫婦」なのである。ところが、作者は、いかなる事情によるものか、離鴛鴦(はなれをし)となった一羽の鳥を見つけた。見ていると、その鴛鴦は水面をすうっと滑るようにして、他のつがいの間を流れていったというのである。情景としては、それだけのことにすぎない。が、雌雄どちらかが単体になると、残されたほうが焦がれ死にするとまで言われている鳥だから、作者は大いに気にして詠んでいる。そしてこの離鴛鴦に感情移入をしていないところが、逆に句の情感を深く印象づけている。私がたまに出かける井の頭公園の池には鴛鴦が多数生息していたが、この冬はめっきり数が減ってしまった。日本野鳥の会の人に聞いてみたら、環境の変化のせいだと教えてくれた。鴛鴦が好む雑木や雑草の影が、伐採によってなくなってしまったからだという。そんなわけで、いまどきの井の頭公園池はどこか侘びしい。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


January 2711999

 ハンバーガーショップもなくて雪の町

                           内山邦子

間時彦『食べもの俳句館』(角川選書)で見つけた句。図書館で借りた本だが、返すのがもったいないくらいに面白い。選句の妙を見せつけられる思いがするからである。掲句の句意は平易なので、解説は不要だろう。ただ、草間氏も書いているように「私はそんなことを全然、気が付かなかったが、ハンバーガーショップの在る、無しが、町の格を決めるものになるのだろうか」。ここが、私も気になった。ちなみに、作者が住むのは新潟県中頚城(なかくびき)郡大潟町。直江津から北東へ十数キロの日本海に面した町だという。私の体験からすると、かつて住んだ町や村に不満だったのは、たとえば書店がないということであった。「町の格」までは意識しなかったけれど、都会との差を測るバロメーターとしては食べ物屋よりも、書店や映画館などの食べられない物を扱う店の存在だったような気がする。大潟町に書店があるかどうかは知らないが、本屋なんかはなくても現代の都会との差を明瞭に意識させられるのは、ハンバーガーショップなのだと作者は言っている。いまや都市化を測る物差しは、「知的」ファッションよりもファッション的な「食物」に移行してしまったということなのだろうか。(清水哲男)


January 2811999

 斯かる人ありきと炭火育てつつ

                           星野立子

後六年目(1951)の作句。立子、四十七歳。まだ、炭火で暖を取るのが当たり前だった頃の句だ。毎日の火鉢の炭火にしてもけっこう育てるのは難しく、それなりに一家言のある人がいたりして、いま思い出すとそれこそけっこう面白い作業ではあった。したがってこの句の「斯(か)かる人」とは、いま眼前に育ちつつある炭火のようなイメージの人というのではなくて、炭火の育て方の巧みだった人のことを言っている。それも育て方を直接教わったというのではなく、その巧みさに見惚れているうちに、いつしか彼の流儀が身についてしまったようだ。で、いつものように炭火を扱っていたら、ひょいとその人のことを思い出したというわけだ。手がその人を覚えていた。遠い昔のその人も、やはりこうやって炭を扱っていたっけ。そして、もっと見事な手さばきだった……。と、作者は炭火の扱い以外には何の関心も抱かなかったその人のことを、いまさらのように懐しく思い出すのである。こういうことは、私にも時々起きる。教室の火鉢にちっちゃな唐辛子を遠くから正確に投げ込んで、みなを涙にくれさせた某君の名コントロールを、こともあろうに突然プロ野球実況を見ながら思い出したりするのである。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


January 2911999

 洋蘭の真向きを嫌うかぜごこち

                           澁谷 道

者は内科医。病人一般の心理には通暁している。しかし、この場合の「かぜごこち」は作者本人のそれだろう。風邪気味の身には、洋蘭の重厚な華やかさが、むしろ鬱陶しいのだ。だから、自分の真正面に花が相対することを嫌って、ちょっと横向きに鉢をずらして据え直した。そんなところだろうが、この気分はよくわかる。発熱したときには、元気なものや華やかなもののすべてがうとましい。どんなに好きなテレビ番組でも、見たくなくなる。風邪の症状は一時的だから、直ればそんなこともケロリと忘れてしまうのだけれど、長患いの人の憂鬱はどんなに深いものだろうか。ましてや老齢ともなると、鬱陶しさは限りない感じだろう。鉢植えの花にせよ、テレビ番組にせよ、なべてこの世の文化的産物は、病人向けに準備されたものではない。享受する人間が元気であることが、前提とされ仮定された世界だ。考えてみれば、これは空恐ろしいことである。最近でこそ、病人や高齢者など「社会的弱者の救済」が叫ばれるようになってはきたが、この言葉や行為そのものに含まれる「元気」もまた、本質的には鬱陶しさの種になりやすいのではあるまいか。『紫薇』(1986)所収。(清水哲男)


January 3011999

 寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ

                           森 澄雄

中の鯉はじっとしていてほとんど動かず、食べず、この季節には成長がとまるらしい。私は泥臭くて好まないけれど、食べるのなら、真冬のいまどきがいちばん美味いのだそうである。同様に、厳冬の寒鮒も美味いといわれる。したがって、上掲のような句も生まれてくるわけだが、自註に曰く。「ある日ある時、飲食にかかわる人間のかなしき所業を捨てて、自ら胸中、一仙人と化して、無数の鯉を飼ってそれと遊ぶ白雲去来の仙境を夢見たのだ」(『森澄雄読本』)。俳人も人間だから(当たり前だッ)、ときに浮世離れをしたくなったということだろう。写生だの描写だの、はたまた直覚だの観照だのという浮世俳諧の呪縛から身をふりほどいて、むしろひとりぼんやりと夢を見たくなった気持ちがよく出ている。しょせん漢詩にはかなわぬ世界の描出だとは思うが、たまには不思議な俳句もよいものである。とりあえず、ホッとさせられる。(清水哲男)


January 3111999

 畑あり家ありここら冬の空

                           波多野爽波

ういう句を読むと、俳句の上手下手とは何かと考えさせられてしまう。たぶん、この冬空は曇っていると思われるが、見知った土地の畑のなかに民家が点在している様子を、作者はあらためて見回しているのである。曇り空と判断する根拠は、空が抜けるように青かったとすれば、作者は地上の平凡な光景をあらためて確認するはずがないと、まあ、こんなところにある。このとき、作者は弱冠二十六歳。「ホトトギス」最年少の同人に輝いた年だ。しかし、この句から二十代の若さを嗅ぎ取る読者はいないだろう。どう考えても、中年以降の人の句と読んでしまうはずだ。「ホトトギス」の親分であった高浜虚子は、なかなか隅に置けない(喰えない)ジャーナリストで、新同人の選別にあたっても、このように常識的な意味での若さのない若い人、あるいは他ジャンルでの有名な人(一例は、小説家の吉屋信子)などを突然同人に推挙して、話題作りを忘れなかった。しかも、草田男であろうが秋桜子であろうが、寄せられた句はどんどん勝手に添削して、自分の色に染め上げちゃったのだから、カリスマ性も十分。なお、このような主宰による添削はいまだに俳句の世界では普通に行われていて、詩人にそのことを言うと、たいてい目を丸くする。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます