恒例極月忘年会。私は競馬音痴だが、毎年ここでは有馬記念でスッた話からはじまる。




1998ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29121998

 行年や夕日の中の神田川

                           増田龍雨

年は「ゆくとし」と読ませる。神田川は東京の中心部をほぼ東西にながれ、隅田川にそそいでいる川だ。武蔵野市の井の頭池を水源としている上流部を、昔は神田上水と言った。中流部は江戸川だ。なにしろ川は長いので、同じ川の名前でも、場所によってイメージは異なる。句の神田川は、どのあたりだろうか。全国的には隅田川や多摩川ほどには知られていない川だけれど、東京人にとっては、昔の生活用水だったこともあり、懐しいひびきのする呼び名だろう。その神田川の夕暮れである。私はお茶の水駅あたりの神田川が好きなので、勝手に情景をそこに求めて読んでいるのだが、たしかに年末の風情はこたえられない。学生街だから、普段は若者で溢れている街に、年末ともなると彼らの姿は消えてしまう。そんな火の消えたような淋しい街に、神田川は猛るでもなく淀むでもなく、夕日の中でいつものように静かに息づいている。まことに「ああ、今年も暮れていくのだ」という実感がこみ上げてくる。そして、こういうときだ。私がお茶の水駅から寒風の中を十数分ほど歩いてでも、有名なビヤホールの「ランチョン」に立ち寄りたくなるのは……。かつてはこの店で、毎日のようにお見かけした吉田健一さんや唐木順三さんも、とっくの昔に鬼籍に入られた。年も逝く、人も逝く。(清水哲男)


December 28121998

 掛けかへし暦めでたし用納

                           佐藤眉峰

納は、その年の仕事を終わること。民間会社では「仕事納」と言い、官庁では「御用納」と言う。この日は残務を処理したり、机上などを片付けたりしてから、年末の挨拶をかわして早めに帰宅する。私が雑誌社に勤めていたころには、会社に歳暮で届いたビールや酒で昼前に乾杯するのが習慣だった。で、さっとすぐに引き上げていくのは故郷に帰る人や旅行に出かける人たちで、いつまでもグズグズしているのは、帰ったところで何もすることがない独身組だった。もちろん、私は後者。それはともかく、よく気がつく人のいる会社では、句のように、この日、暦が来年のものに掛けかえられる。新年初出社のときに古いカレンダーがぶら下がっていたのでは、興醒めだからだ。そして、新しい暦に掛けかえられると、年内にもかかわらず、たしかに一瞬「めでたし」という気分になるものだ。平凡なようだが、情緒の機微に敏感な作者ならではの句である。そしてまた、このときに捨てられる今年の暦は「古暦」と言われ、冬の季語にもなっている。正確に言えばまだ使える暦なのに「古暦」とは、面白い。ではいったい、年内のいつごろから「今年の暦」は「古暦」となるのかと悩んだ(?)句が、後藤夜半にある。「古暦とはいつよりぞ掛けしまま」。(清水哲男)


December 27121998

 年の瀬のうららかなれば何もせず

                           細見綾子

れもこれもと思いながらも、結局は何事も満足にはかどらないまま過ぎてしまうのが、私の年の瀬。ならば、この句のように、今日は何もしないと思い決めたほうがすっきりする。天気は晴朗、風もなし。そう思い決めると、心の中までが「うららか」となる。他人に迷惑が及ぶわけではなし、何も焦ることはないのである。と言いつつも、ついついそこらへんの物を片付けたくなるのが、しょせんは凡人の定めだろうか。歳時記や古いタイプの暦を見ていると、昔の年用意は実に大変だったことがわかる。大掃除、餅つき、床飾り、松迎え、年木樵、春着の準備などなど、一日たりとも何もしないで過ごすわけにはいかなかったろう。ただし、暦というマニュアルに従って、頑張って事を進めていければ、ちゃんと人並みに正月が迎えられるようにはなっていた。マニュアル時代の現代において、そうした暦がないのも変な話とも言えようが、それだけ昔と比べて、正月の過ごし方やありようが多様化してきて、マニュアル化できなくなったということだろう。なにしろ、おせち料理ひとつにしても、洋風や中華風が登場する時代なのだから……。正月よりもクリスマスのほうの古典性が守られているという変な国。(清水哲男)




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