親父連中が、キャバレーでパーッとやっていた聖夜。あの軽薄さに乗り遅れた悔しさ。




1998ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24121998

 子へ贈る本が箪笥に聖夜待つ

                           大島民郎

リスマス・プレゼント。西洋のお年玉みたいなものだが、お年玉よりは渡し方に妙味がある。いつごろ、誰が発案したのだろうか。たいしたアイデアだ。このアイデアで最もよいところは、贈り主が匿名であるところだろう。両親からでもなければ、他の誰からでもない。すなわち、神様からのプレゼントということになる。そこが、お年玉のように恩着せがましくなくて素敵だ。ただし、神様からのプレゼントは遠い北国からサンタクロースが運んでくることになっているので、匿名に徹する親は大変である。聖夜にこっそりと枕元に置いておかなければならない。ために、その夜まで保管場所に苦労する。本ならばなるほど箪笥に隠すというテもあるが、大きな物の場合は本当に困惑する。いつだったか一輪車を買ってきたまではよかったが、クローゼットに押し込んではみたものの、いつ発見されるかとヒヤヒヤの仕通しだったことがある。それもこれもが、みな親心。クリスマスの日に、子供が喜ぶ顔を想像しては、作者も指折り数えて待っているのだ。このとき、父親は子供よりもむしろ聖夜を待ちかねていたにちがいない。(清水哲男)


December 23121998

 夜空より大きな灰や年の市

                           桂 信子

の市。新年用の品物を売る市だ。昔は社寺の境内に立つ大市のことを言ったようだが、いまでは、ちょっとした商店街の歳末大売り出しのことでもよいだろう。しかし、間違ってもスーパー・マーケットなどのそれではない。やはり、空間的には戸外の寒さが必要だ。東京でいえば、上野のアメヨコなど。寒さの中を人込みにまぎれているだけで、年の瀬を感じる。活気があり、風情がある。最近はダイオキシン騒ぎもあって焚火もご法度だが、ちょっと前までは、そんな市でのそこここでは焚火が見られた。店の人が暖を取るためと、不用になった藁や紙の類を燃やすためだ。そういうものを火に投げ込む。と、一瞬パーッと炎が大きくなり、やがて紙類は大きな灰となって夜空に舞い上がり、舞い降りてくる。そのありさまが、年の瀬ならではの情緒の一つであった。炎は、人間の心をゆさぶる。そして炎とともに上がっていく灰もまた、心をざわめかせる。いまとなっては、もはや郷愁の光景を詠んだ句だ。いや、書かれた当時から、この光景は人々の胸に郷愁のように住みついていた光景であったろう。論理矛盾ではあるけれど、目の前の出来事がすなわち郷愁なのであった。まことに、炎は魔術師という他はない。『初夏』(1977)所収。(清水哲男)


December 22121998

 定年の人に会ひたる冬至かな

                           高橋順子

至。昼の時間が最も短い日。一年を一日に例えるならば、冬至はたそがれ時ということになる。そんな日に偶然にも、定年を迎えた人に会った。定年もまた、人生のたそがれ時には違いない。その暗合に、作者は人生的な感慨を覚えている。そして、作者の感慨は、読者の心の内に余韻となって共鳴していくだろう。さりげないけれど、内実は鋭い句だ。作者は詩人で、俳句もよくする(俳号は泣魚)。「定年」で思い出した。句とは無関係だが、作家の篠田節子という人が「朝日新聞」(12月20日付朝刊)に、こんなことを書いていた。「買物に行って近所に住む定年退職後の『おじさん』に会うと、『ねえ、お茶、飲もうよ』とマクドナルドに連れ込んでしまう友人がいる。山の手の住宅地で、マダムファッションに身を固めて父母会に出席する風土に、きっちり溶け込んでいる主婦である。『おじさん』の話は新鮮で驚かされることが多いという。……」。なんとなく嘘っぽい話だ。事実だとすれば、こんなふうに定年後の男をおちょくる女もいるのかと、腹が立つ。ノコノコついていく男にも呆れるが、マクドナルドでちょっと「おじさん」の話を聞いたくらいで、何か人生のタメになると思っている軽薄な女なんぞの顔も見たくはない。「おじさん」と呼ばれる立場の読者の皆さんも、十分にご注意あれ。『博奕好き』(1998)所収。(清水哲男)




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