首相がボーナス半額返納。返すことはない、もらっとけ。そういう問題じゃないのだ。




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December 23121998

 夜空より大きな灰や年の市

                           桂 信子

の市。新年用の品物を売る市だ。昔は社寺の境内に立つ大市のことを言ったようだが、いまでは、ちょっとした商店街の歳末大売り出しのことでもよいだろう。しかし、間違ってもスーパー・マーケットなどのそれではない。やはり、空間的には戸外の寒さが必要だ。東京でいえば、上野のアメヨコなど。寒さの中を人込みにまぎれているだけで、年の瀬を感じる。活気があり、風情がある。最近はダイオキシン騒ぎもあって焚火もご法度だが、ちょっと前までは、そんな市でのそこここでは焚火が見られた。店の人が暖を取るためと、不用になった藁や紙の類を燃やすためだ。そういうものを火に投げ込む。と、一瞬パーッと炎が大きくなり、やがて紙類は大きな灰となって夜空に舞い上がり、舞い降りてくる。そのありさまが、年の瀬ならではの情緒の一つであった。炎は、人間の心をゆさぶる。そして炎とともに上がっていく灰もまた、心をざわめかせる。いまとなっては、もはや郷愁の光景を詠んだ句だ。いや、書かれた当時から、この光景は人々の胸に郷愁のように住みついていた光景であったろう。論理矛盾ではあるけれど、目の前の出来事がすなわち郷愁なのであった。まことに、炎は魔術師という他はない。『初夏』(1977)所収。(清水哲男)


December 22121998

 定年の人に会ひたる冬至かな

                           高橋順子

至。昼の時間が最も短い日。一年を一日に例えるならば、冬至はたそがれ時ということになる。そんな日に偶然にも、定年を迎えた人に会った。定年もまた、人生のたそがれ時には違いない。その暗合に、作者は人生的な感慨を覚えている。そして、作者の感慨は、読者の心の内に余韻となって共鳴していくだろう。さりげないけれど、内実は鋭い句だ。作者は詩人で、俳句もよくする(俳号は泣魚)。「定年」で思い出した。句とは無関係だが、作家の篠田節子という人が「朝日新聞」(12月20日付朝刊)に、こんなことを書いていた。「買物に行って近所に住む定年退職後の『おじさん』に会うと、『ねえ、お茶、飲もうよ』とマクドナルドに連れ込んでしまう友人がいる。山の手の住宅地で、マダムファッションに身を固めて父母会に出席する風土に、きっちり溶け込んでいる主婦である。『おじさん』の話は新鮮で驚かされることが多いという。……」。なんとなく嘘っぽい話だ。事実だとすれば、こんなふうに定年後の男をおちょくる女もいるのかと、腹が立つ。ノコノコついていく男にも呆れるが、マクドナルドでちょっと「おじさん」の話を聞いたくらいで、何か人生のタメになると思っている軽薄な女なんぞの顔も見たくはない。「おじさん」と呼ばれる立場の読者の皆さんも、十分にご注意あれ。『博奕好き』(1998)所収。(清水哲男)


December 21121998

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人

                           草間時彦

書に「勤めの身は」とある。自嘲ではない。あきらめの境地というのでもない。ひっそりと咲く冬薔薇に託した嘆息である。会社の勤務実績査定で「詩人(俳人)」であることがマイナスに働いたようだ。そうとしか思えない。そんな馬鹿な話があるものか。……とまで作者は言っていないが、こういうことは実際にないとは言い切れない。たとえば俳人の富安風生は逓信次官にまで出世したエリート官僚だったが、上司から句作りについて遠回しに非難されたことがあるという。査定にまで影響はしないにしても、職場で「詩人だからなあ」と言われれば、それは「仕事ができない変わり者」と言われたのと同義なのだ。ゴルフや釣に凝っていても、決してそんなニュアンスでは言われない。ゴルフや釣は道楽だけれど、詩は道楽のうちに入らないと思われているらしい。道楽を超えて、四六時中(したがって仕事中も)とてつもない非常識なことばかり考えているのが詩人なのである。こうした頑迷な「会社常識」に出会うたびに、私は「詩」も随分とかいかぶられたものだと思ってきた。と同時に、この種の「会社常識」がもっとも恐れるのが「言葉の働き」だということに、内心ニヤリともしてきたのである。『中年』(1965)所収。(清水哲男)




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