アメリカ発も含め「狸汁情報」続々。ありがとうございました。幻の狸汁が身近に…。




1998ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18121998

 冬の日の川釣の竿遺しけり

                           宇佐美魚目

走に父親を亡くした作者の追悼六句の内。説明するまでもないが、故人愛用の品は涙を誘う。亡くなっても、いつもの場所にいつものように釣竿はあり、それを使う主がもはやいないことが、とんでもなく理不尽なことに感じられてならない。見ていると、いまにも父親が入ってきて、竿を手に元気に出かけていきそうな気がするからである。日差しの鈍い冬の日だけに、作者はますます陰欝な心持ちへと落ちていくのだ。人が死ねば、必ず何かを遺す。当たり前だけれど、生き残った者にはつらいとしか言いようがない。遺品は、故人よりもなお雄弁に本人を語るところがあり、その雄弁さが遺族の万感の思いを誘いだすのである。釣竿だとか鞄だとかと、なんでもない日常的な物のほうがむしろ雄弁となる。その意味からすると、故人自身が雄弁になっている著作物などは、かえって遺品としての哀しみの誘発度は少ないのではあるまいか。さらには、インターネットのホームページなどはどうだろう。故人のページが、契約切れになるまではネットの上で電子的に雄弁にも明滅している。その様子を私は、ときおり自分の死んだ後のこととして想像することがある。『秋収冬蔵』(1975)所収。(清水哲男)


December 17121998

 狸汁花札の空月真赤

                           福田蓼汀

料理屋か何かで一杯やりながら、親しい仲間と花札で遊んでいるという図。小腹が空いてきたので、みんなで狸汁を注文した。しばし休憩である。運ばれてきた狸汁をすすりながら、ちらばった花札を見るともなく見ていると、ふと真っ赤な月の札に目がいった。人を化かすのが専門の狸だけに、真っ赤な月の様子もただならぬ気配に思えたというところか。小さな花札を一挙に視覚的に拡大して、句全体を妖しい雰囲気に仕立て上げている奇妙な味が面白い。ところで、花札に「真赤な月」の絵柄はない。俗に言う「坊主」札に月が出ているものはあるけれど、月が赤いのではなく、月光にあたる部分(山の上の空)が赤く塗られているだけだ。月それ自体は真っ白である。本当は空が真っ赤ということなのだが、この札を短い言葉で形容するとなれば「空月真赤」と言うしかないだろう。そして、問題は狸汁。作者にとっての問題ではなく、私にとっての問題なのだ。というのも、これまでに一度も食べたことがないからで、いったいどういう味がするものやら見当もつかない。味噌汁にするのが普通だと聞いてはいる。でも、食したことのある友人も皆無だし、手元の角川版歳時記にも「冬の狸は脂肪が乗って悪くはないという」などと伝聞調の記述があるばかり。この解説者も、食べたことはないようだ。どなたか、狸汁を出す店をご存じの方がおられましたら、ぜひともご教示いただきたく……。(清水哲男)


December 16121998

 船のやうに年逝く人をこぼしつつ

                           矢島渚男

れていく年。誰にもそれぞれの感慨があるから、昔から季語「年逝く」や「行く年」の句はとてもたくさんある。が、ほとんどはトリビアルな身辺事情を詠んだ小振りの抒情句で、この句のように骨格の太い作品は珍しい。「船のやうに」という比喩も俳句では珍しいが、なるほど年月はいつでも水の上をすべるがごとく、容赦なく逝ってしまうのである。つづく「人をこぼしつつ」が、まことに見事な展開だ。これには、おそらく二つの意味が込められている。一つは、人の事情などお構いなしに過ぎていく容赦のない時間の流れを象徴しており、もう一つには、今年も「時の船」からこぼれ落ちて不在となった多くの死者を追悼する気持ちが込められている。「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」と、芭蕉は『おくのほそ道』に書きつけた。この情景を年の暮れに遠望すれば、かくのごとき世界が見えてくるというわけである。蛇足ながら「舟」ではなくて「船」であるところが、やはり現代ならではの作品だ。蛇足ついでの連想だが、いわゆる「一蓮托生」の「蓮」も、現実的にはずいぶんと巨大になってきているのだと思う。『船のやうに』所収。(清水哲男)




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