新装なった半蔵門会館(東京麹町)。パズルのような入り口だけは一見の価値あり。




1998ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07121998

 金網にボールがはまり冬紅葉

                           川崎展宏

ニスのボールかもしれないが、この場合は野球のボールのほうが面白い。もちろん、草野球だ。軟式のボールは、ときにキャッチャー・マスクにはまってしまうほど変形しやすいのである。折しも金網を直撃したボールが、そのまま落ちてこなくなった。追いかけた野手が、茫然と金網を見上げている。そのうちに、他のメンバーも一人、二人と寄ってくる。相手方の何人かも駆け寄ってきて、ついには審判も含めた全員が金網を見上げるという事態になる。手をかけてゆさぶってみるのだが、はまり込んだボールは一向に落ちてきそうもない。なかには、グラブをぶつける奴もいる。しばらく、ゲームは中断である。と、それまで試合に熱中していて気がつかなかったのだが、場外のあちこちには、まだ美しく紅葉した木々の葉が残っているという情景。にわかに、初冬のひんやりした大気が、ほてった身体に染み込んでくるようである。そして、ナインはそれぞれに、もう野球ができなくなる季節の訪れが近いことを感じるのでもある。このボールは、落ちてきたのだろうか。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


December 06121998

 おでん煮えさまざまの顔通りけり

                           波多野爽波

台のおでん屋。あそこは一人で座ると、けっこう所在ないものだ。テレビドラマでも映画でもないのだから、人生の達人みたいな格好の良いおじさんが屋台を引いてくるわけではない。だから、おじさんと人生論などかわすでもない時が過ぎていくだけだ。したがって客としても、そんなおじさんをじろじろ眺めているわけにもいかず、必然的に、目のやり場としては、屋台の周辺を通っていく見知らぬ誰彼の方に定まるということになる。と、まさに句のように「さまざまな顔が通り」すぎていく。それがどうしたということもなく、チクワやハンペンをもそもそと食べ、なぜかアルコールの薄い感じのする酒をすすりながら、「さまざまな顔」をぼんやりと見送っているという次第。句の舞台はわからないが、爽波は京都在住だったので、勝手に見当をつければ出町柳あたりだろうか。出町柳には、私の学生時代に毎晩屋台を引いてくる「おばさん」がいた。安かったのでよく寄ったのだが、彼女は学生と知ると説教をはじめるタイプで、辟易した思い出がある。「悪い女にひっかからないように」というのが、彼女得意の説教のテーマであり、辟易はしていたが、おかげさまで今日まではひっかからないで(多分……)すんでいるようだ。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


December 05121998

 日光写真片頬ぬくきおもひごと

                           糸 大八

光写真は冬の季語。「青写真」ともいい、子供の冬の遊び。漫画のキャラクターなどが黒白で印刷されたネガに印画紙を重ね、その上にガラス板を置き、日光に当てて焼き付ける。水洗いすると、絵が浮き上がってくる種類のものもあった。いまではまったく廃れてしまい、新しい歳時記では削除されている。私の子供の頃の少年雑誌の新年号には、必ず付録についていて、楽しみだった。ただし、ネガの枚数よりも印画紙が少なく、どれを焼き付けるかをセレクトするのが大変だった。ま、それを考えるのも、楽しみの一つだったけれど……。ところで、この句の子供は、かなり大人びているようだ。低い冬の日に片頬を照らされながら、完全に日光写真に没入してはいず、何か他のことを思っている。かすかに芽生えはじめた恋心にとらわれていると読んだのだが、そうなると、この少年にとっての日光写真遊びも、この冬あたりで終わるということだ。いつまでも子供っぽくはいられない少年のありようが、的確に捉えられている。どんなに熱中している遊びでも、いつかは終わる。それっきりで、生涯思いださない遊びもあるだろう。(清水哲男)




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