獅子座流星群はどうでしたか。私は33年後に見ればいいやと、寝てしまいました。




1998ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18111998

 夕紅葉なにも雑へずかく窮る

                           竹中 宏

の人の句には、難しい漢字や読ませ方が多い。主宰誌の「翔臨」を読むときには、辞書を片手にということになる。しかし、よく読んでみると、たしかに難しい漢字や読ませ方が、作者の必然的な帰着であることが納得される。どうしても他の読みやすい漢字では代替できない境地が、そうさせているのだ。句の「雑へず」は「まじへず」と読ませ、「窮る」は「きわまる」と読む。つるべ落としの秋の日を背景に、紅葉が今日を最後とばかりに冷たくも鮮やかに映えている。このとき、「なにも雑へず」という言葉は雑木の紅葉を暗示しており、なにもまじえていない雑木という形容矛盾が、矛盾とは少しも感じられないほどに窮まっているという面白さ。やはり、これらの漢字が使われて、はじめて句は視覚的に凡庸を脱しているのである。作者は京都の人。京都には紅葉の名所は多いけれど、地元の人はそんなところをわざわざ訪ねたりはしない。この紅葉もそこらへんの紅葉、つまり雑なる場所の紅葉だろう。そこが、また好もしい。「俳句朝日」(1998年12月号)所載。(清水哲男)


November 17111998

 とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな

                           松本たかし

火は、ご馳走だった。昼間であれば紫色の煙のよい匂いがご馳走だったし、朝や夕方には冷えた手足を温めてくれるご馳走だった。句は夕刻のご馳走を味わっている間に、うかつにも日が暮れたのに気がつかなかったというところだ。ふと振り返ってみると、空は既に「とつぷりと」暮れてしまっていたのである。焚火の魅力が、とても美しく表現されている。誰にでも、こんな思い出はあるだろう。ところで、巽聖歌が詩を書いた「たき火」という歌がある。「かきねの かきねの まがりかど」という歌い出しだ。小学校で習った。これまた焚火をうたった名作であるが、川崎洋『大人のための歌の教科書』(いそっぷ社)によれば、この童謡の発祥の地という立て札が、いまも東京の中野区の旧家にあるそうだ。そういえば、焚火は都会の住宅地ならではの風物詩だった。揚句の舞台も、鎌倉である。農村でももちろん焚火はしたが、生活上必要不可欠の焚火には、実際的で繊細な抒情味には欠けている。それから「たき火」の作曲者は渡辺茂という方で、ご健在だ。私の娘はふたりとも、小学校で渡辺先生に音楽を教えていただいた。我が家の自慢である。最近は、ちょっと焚火をしただけでも警察に電話をされるという。もはや「とつぷりと」先に暮れているのは、人情のほうであるらしい。(清水哲男)


November 16111998

 昼めしの精進揚や冬隣

                           川上梨屋

進揚(しょうじんあげ)は、野菜の天ぷらのこと。人参、ごぼう、茄子、さといも、れんこん、南瓜……。そして、ときには三つ葉などの葉物類。魚など生臭いものは揚げないので、精進揚という。あっさりしていて、私の好みだ。深大寺(東京・調布)の山門への登り口に野草の天ぷらを出す店があって、これも精進揚である。たまに寄ってみるが、いつも美味い。ところで、句の精進揚は、昨夜のおかずの残りか何かで冷えきっていると読んだ。暖かい季節には、冷えた天ぷらもまた美味なものだが、そぞろ寒さがきざしてくる頃ともなると、その冷たさは歯にしみ、侘びしさにも通じてくる。作者の職業は、実は「鰻屋」さん。で、これから店を開ける準備にかかる前の昼飯なのだから、悠長におかずなど作ってはいられないのだ。昨夜の残り物で、適当にすませてしまうというわけである。ありあわせの精進揚での昼飯に、その冷たい侘びしさともあいまって、冬がもうすぐ近くに来ていることを、いやでも実感させられてしまう。食べ物を扱っている人は、やはり食べ物での説得が人一倍巧みである。(清水哲男)




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