庭の山茶花に小鳥が来る。生きている花鳥図。カメラでねらうが、絵にはならない。




1998ソスN11ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 13111998

 酒断って知る桎梏のごとき夜長

                           楠本憲吉

ィスキー一本くらいは軽くあけていたというのだから、作者は相当の酒豪であった。ために肝臓を冒され、「断酒という苦界に追放」されてしまった。酒好きの読者には、解説など不要であろう。秋の「夜長」の実感が胸をついてくるようだ。他にも俳句ともつぶやきともつかぬ「酒飲めぬ街にやたらに赤信号」があり、これまた酒飲みの心にしみてくる。自嘲的自解に曰く。「私が胃をやられたとき、今はもう故人の伯父が、『可哀相になあ。「たこ梅」のカウンターでおでんを肴に熱燗一杯やる人生の楽しみが、おまはんにはのうなってしまいよった。』ということばが、いまさら実感として思い出される」。それでなくとも長い夜の季節を、作者はどうやり過ごしていたのだろうか。というわけで、ま、おたがい「ほどほどに」やりましょうや……。ただし、この「ほどほどに」という言葉を酒飲みが大嫌いなことを、酒を飲まない人は知らないのだから、世の中は厄介である。『自選自解・楠本憲吉句集』(1985)所収。(清水哲男)


November 12111998

 これよりは菊の酒また菊枕

                           山口青邨

暦をむかえ、東大を定年退職する願書をしたためたときの感慨。自解がある。「大学におる頃は外では飲んでも宅では晩酌することはなかった。晩酌という言葉はいかにも老人めいた、飲酒家(さけのみ)めいた言葉で嫌いだ。大学を退いたら愉しみのために健康のためにすこし飲もうと思った。『菊の酒』は重陽の祝の酒だが盃に菊の花弁をうかべて飲み、災厄をはらうという中国の風習でもあった。句は菊の酒を飲み、菊枕をして、かぐわしい中に眠ろう、長い間の学究生活も一段落ついた、これからは悠々自適余生を楽しもう、有難いことだという意である」。昭和二十七年(1952)の作。宮仕えから解放される喜びが素直に出ているが、今日の読者からすると、なんだか呑気すぎるような気もする。高齢化社会など想像も及ばなかった時代だから、還暦すなわち余生へと、気持ちが自然につながっているせいである。それにしても「晩酌」という言葉が嫌いな人がいたことには、ちょっとびっくりしてしまった。そんなに老人くさい言葉ですかねエ。ちなみに、青邨の没年は昭和六十三年(1988)で、享年は九十六歳。長い長い余生であった。『冬青空』(1957)所収。(清水哲男)


November 11111998

 六面の銀屏に灯のもみ合へり

                           上村占魚

箔地の大屏風が引きまわしてあり、その六面に灯火があたっている様子。たしかに光りは反射し合ってもみ合うように見え、その様で屏風はひときわ豪奢な感じに映えてくる。屏風というと、たいていの人は屏風絵に心を奪われるようだが、作者は屏風という存在そのものに光りをあてていると言うべきか。句の屏風も、今日でも結婚披露宴などで用いられる金屏風などと同じく様式化されたものだが、元来は風よけの衝立として中国から渡来した生活道具であった。だから、屏風は冬の季語。六曲一双が基準であるが、これは簡単に倒れないための物理的な工夫から出た結論だろう。私が子供だったころには、まだ生活道具としての屏風が使われていた。句のような大きいものではなく、高さが一メートルにも足りない小屏風で、寝ている赤ん坊に隙間風があたらないように立てられていたことを覚えている。そんな小さな屏風は無地であったが、やがて赤ん坊が大きくなってくると、絶好の落書きボードに様変わりするのは当然の運命である。なにせ大の大人にしてからが、屏風の白くて大きな平面の誘惑に耐え切れずに、ああでもないこうでもないと箔を貼ったり絵を描いたりしてきたのだから……。『鮎』(1946)所収。(清水哲男)




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