井川博年、八木忠栄らと「俳句朝日」座談会。さながら余白句会の青年部会(笑)。




1998ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12111998

 これよりは菊の酒また菊枕

                           山口青邨

暦をむかえ、東大を定年退職する願書をしたためたときの感慨。自解がある。「大学におる頃は外では飲んでも宅では晩酌することはなかった。晩酌という言葉はいかにも老人めいた、飲酒家(さけのみ)めいた言葉で嫌いだ。大学を退いたら愉しみのために健康のためにすこし飲もうと思った。『菊の酒』は重陽の祝の酒だが盃に菊の花弁をうかべて飲み、災厄をはらうという中国の風習でもあった。句は菊の酒を飲み、菊枕をして、かぐわしい中に眠ろう、長い間の学究生活も一段落ついた、これからは悠々自適余生を楽しもう、有難いことだという意である」。昭和二十七年(1952)の作。宮仕えから解放される喜びが素直に出ているが、今日の読者からすると、なんだか呑気すぎるような気もする。高齢化社会など想像も及ばなかった時代だから、還暦すなわち余生へと、気持ちが自然につながっているせいである。それにしても「晩酌」という言葉が嫌いな人がいたことには、ちょっとびっくりしてしまった。そんなに老人くさい言葉ですかねエ。ちなみに、青邨の没年は昭和六十三年(1988)で、享年は九十六歳。長い長い余生であった。『冬青空』(1957)所収。(清水哲男)


November 11111998

 六面の銀屏に灯のもみ合へり

                           上村占魚

箔地の大屏風が引きまわしてあり、その六面に灯火があたっている様子。たしかに光りは反射し合ってもみ合うように見え、その様で屏風はひときわ豪奢な感じに映えてくる。屏風というと、たいていの人は屏風絵に心を奪われるようだが、作者は屏風という存在そのものに光りをあてていると言うべきか。句の屏風も、今日でも結婚披露宴などで用いられる金屏風などと同じく様式化されたものだが、元来は風よけの衝立として中国から渡来した生活道具であった。だから、屏風は冬の季語。六曲一双が基準であるが、これは簡単に倒れないための物理的な工夫から出た結論だろう。私が子供だったころには、まだ生活道具としての屏風が使われていた。句のような大きいものではなく、高さが一メートルにも足りない小屏風で、寝ている赤ん坊に隙間風があたらないように立てられていたことを覚えている。そんな小さな屏風は無地であったが、やがて赤ん坊が大きくなってくると、絶好の落書きボードに様変わりするのは当然の運命である。なにせ大の大人にしてからが、屏風の白くて大きな平面の誘惑に耐え切れずに、ああでもないこうでもないと箔を貼ったり絵を描いたりしてきたのだから……。『鮎』(1946)所収。(清水哲男)


November 10111998

 秋冷のまなじりにあるみだれ髪

                           飯田蛇笏

の句を解説して、歌人であり小説家でもあった上田三四二は、『鑑賞現代俳句全集・第二巻』(立風書房・1980)で「僅々十七字の中から、明眸の女人の顔がくっきりと浮かび上がる」と述べている。そうだろうか。私が直覚的に感じるのは、美人(明眸)の顔というよりも、むしろ男にとっての女性の「性」そのものである。明眸にこしたことはないけれど、作者が訴えているのはそういうことではなくて、冷たい秋風のなかでのまなじりにかかった髪の毛に、不意に触発される男でなければ感じられない「性意識」なのではあるまいか。顔はさして問題ではなく、冷たい外気のなかにあってもなお熱く発現してしまう(と、男が感じる)「女」全体のありようを象徴させている句だと思う。昭和二十九年(1954)の作品というから、蛇笏は七十歳を間近にしていたわけで、単に美人の顔をそれとして詠むのであれば、このような技巧は不必要である。女の顔の美しさよりも、女の「性」のしたたかな熱さに、作者は一瞬たじろいでいるのだ。だからこそ「秋冷」の季語も利いてくるのである。『飯田蛇笏全句集』(1971)所収。(清水哲男)




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