競馬はよく知らないがサイレンススズカの悲劇はなぜ起きたのか。妙にひっかかる。




1998ソスN11ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 03111998

 父母の天長節の明治節

                           原岡昌女

屈の句だが、面白い。十一月三日は、もともとが明治天皇の誕生日で、明治時代には「天長節」と言った。国家によって「明治節」と定められたのは、昭和二年(1927)のことである。だから、作者の明治生まれの両親は今日を毎年「天長節」と呼ぶわけだが、昭和に物心のついた作者は、そのたびに「ああ明治節のことだ」と訂正しながら理解するという趣きだろう。その「明治節」も、昭和二十三年(1948)には「文化の日」と改められた。戦後の新憲法発布を記念して祝日とされたのである。このことは、小学校の教室で誰もが習ったはずだけれど、もう忘れている人も相当にいそうである。憲法と文化との感覚的な釣り合いの悪さが、どうやらそうさせるのだと思う。それにしても、戦後は「文化」がはやった。大流行だった。「文化住宅」やら「文化人」にはじまって「文化コンロ」や「文化包丁」にいたるまで、なんにでも「文化」がくっついていた。「文化」がブランドになっていたのである。東京のラジオ局「文化放送」(JOQR)という呼称も、その名残りだ。いまにして、あのころに喧伝された「文化」とは、いったい何だったのだろうかと思う。それにしても、いまの(!)ワープロソフト(EGWORD6.0)で「天長節」が一発で出たのには驚いた。「明治節」は出なかった。これが、いまの「文化」なのか……。(清水哲男)


November 02111998

 夜寒さの買物に行く近所かな

                           内田百鬼園

和九年(1934)の作。句作年代を知らないと、味わいが薄くなってしまう。煙草だろうか、薬だろうか。いずれにしても、ちょっとした買い物があって近所の店に出かけていく。もちろん、普段着のままである。句作年代が重要というのは、この普段着が「和服」だったことだ。かなり洋服が普及していたとはいっても、家の中でも洋服を着ている人はまだ少なかった。戦前の男も女も、くつろぐときは和服である。和服だから、夜道に出ると肩や胸、袖口のあたりにうそ寒さを感じる。これで素足に下駄だとすれば、なおさらのこと。ほんの「近所」までなのだけれど、季節の確実な移り行きが実感されるのである。もちろんコンビニなどなかった時代だから、店もはやく閉まってしまう。自然と急ぎ足になるので、いっそう夜風も身にしみるというわけだ。なんということもない句であるが、「買物」や「近所」という日常語が新鮮にひびいてくる。昭和初期の都会生活の機微が、さりげない詠みぶりのなかにも、よく認められる。『百鬼園俳句帖』(1934)所収。(清水哲男)


November 01111998

 武蔵野は十一月の欅かな

                           松根東洋城

しかに、十一月の欅(けやき)は美しい。句の武蔵野がどのあたりを指すのかは不明だが、現在の武蔵野市でいえば成蹊大学通りの欅並木が有名である。この季節に黄葉した並木通りに立つと、句境がさわやかに感じられて心地よい。とはいえ、武蔵野市と欅の結びつきはそんなに古いものではなく、成蹊の欅も大正末期に植樹されたものだ。したがって、明治の人である國木田獨歩が『武蔵野』で書いているのは、欅ではなく楢(なら)の林の美しさである。「緑陰に紅葉に、様々の光景を呈する其妙は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである」と威張っている。まだ、渋谷が村であった時代だ。しかし、獨歩の楢林もまた明治の特色なのであって、古く詩歌にうたわれた武蔵野は果てなき萱(かや)原によって代表される。獨歩は、その古い武蔵野のおもかげをなんとか見てみたいと思い、その気持ちが『武蔵野』執筆の動機となった。「『武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間郡に残れり』と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」というのが、開巻冒頭の一行だ。入間郡は、現在の埼玉県入間市。「武蔵野」というと、なんとなくいまの武蔵野市あたりと思っている人が多いようだが、そうではないことがわかる。渋谷なども含め、もっと広大な地域を指す呼称だった。(清水哲男)




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