花屋にポインセチアが登場。近所の河豚屋に「忘年会の予約はお早めに」の看板。




1998年10月14日の句(前日までの二句を含む)

October 14101998

 まつすぐの道に出でけり秋の暮

                           高野素十

んだい、これは。おおかたの読者は、そう思うだろう。解釈も何も、それ以前の問題として、つまらない句だと思うだろう。「で、それがどうしたんだい」と、苛立つ人もいるかもしれない。私は、専門俳人に会うたびに、つとめて素十俳句の感想を聞くことにしてきた。私もまた、素十の句には「なんだい」と思う作品が多いからである。そんなアンケートの結果はというと、ほとんどの俳人から同じような答えが帰ってきた。すなわち、俳句をはじめた頃には正直いって「つまらない」と思っていたが、俳句をつづけているうちに、いつしか「とても、よい」と思うようになってきた……、と。かつて山本健吉は、この人の句に触れて「抒情を拒否したところに生まれる抒情」というような意味のことを言ったが、案外そういうことでもなくて、このようにつっけんどんな己れの心持ちをストレートに展開できるスタンスに、現代のプロとしては感じ入ってしまうということではあるまいか。読者に対するサービス精神ゼロのあたりに、かえって惹かれるということは、何につけ、サービス過剰の現代に生きる人間の「人情」なのかもしれないとも思えてくる。みんな「まつすぐの道」に出られるのならば、今すぐにでも出たいのだ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


October 13101998

 秋風に和服なびかぬところなし

                           島津 亮

服の国に生まれながら、一度もちゃんとした和服を着たことがない。サラリーマンをやめてからは、いわゆるスーツもほとんど着ない。年中、ジーンズで通している。服の機能性を重視するというよりも、単純に面倒臭いので、ちゃんとした服を着る気にならないだけの話だ。つまり、しゃれっ気ゼロ。そんな私だが、他人が和服やスーツをきちんと着こなしている姿は好きだ。とくに中年女性の上品な和服姿には、素朴に感動する。というわけで、この句にも素直に文句なしに感動した。なるほど、和服の袖や袂や裾は自然に風になびくのであり、着ている人の心持ちからいうと、襟元などを含めたすべての部分が「なびかぬところなし」の感じになるはずである。和服にはなびく美しさを前提にしたデザイン思想があるようで、裾模様などという発想は、その典型だろう。その点、西洋の「筒袖」(明治期の洋服の一呼称)には「なびきの美学」は感じられない。西洋は風にあらがい、この国は風に従い、風を利用して審美眼を培ってきた。すなわち、俳句はこの国に特有の「なびきの美学」の文学的表現でもある。『紅葉寺境内』所収。(清水哲男)


October 12101998

 一葉落ち犬舎にはかに声おこる

                           小倉涌史

った一枚の葉が落ちて犬が驚き騒いだというのだから、相当に大きな葉でなければならない。たぶん、朴(ほお)の葉だろう。三十センチ以上もある巨大な葉である。つい最近、直撃は免れたけれど、呑気に歩いていたらいきなりコヤツが落ちかかってきてびっくりした。落下音も、バサリッと凄い。犬だからびっくりするのではなく、人間だって相当にびっくりする(「朴落葉」や「落葉」は冬の季語)。ところで、句の時系列ないしは因果関係とは反対に、作者はにわかに犬小屋が騒がしくなったことから、ああきっと朴の葉が落ちたのだなと納得し、そこでこのように時間的な順序を整えて作品化している。まさか、これから葉が落ちて犬がびっくりするぞと、ずうっと朴の木を見張っていたわけではあるまい。つまり、この句は写生句のようでいて、本当は事実に忠実な写生句ではないのである。しかし、この句を、書かれているままの時間の順序に従って読み、それだけで納得する人は少ないだろう。やはり、私たちは犬が騒いだので作者が落葉を知ったのだと、ごく自然に読むのである。なぜだろうか……。俳句だからだ。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます