深大寺の茶店に入ったら長唄が聞こえてきた。ビールを取って昔の人みたいな気分。




1998年10月11日の句(前日までの二句を含む)

October 11101998

 疲労困ぱいのぱいの字を引く秋の暮

                           小沢昭一

感して大きくうなずくことは、よくある。が、共感するあまりに、力なく「へへへ」と笑ってしまいたくなるのが、この句だ。疲れた身体にムチ打つようにして文章を書いている最中に、何の因果か「ヒロウコンパイ」と書かねばならなくなった。ところが「困ぱい」の「ぱい」の字が思いだせない。大体のかたちはわかるのだが、いい加減に書くわけにもいかず、大きな辞書をやっこらさと持ちだして来て「こんぱい」の項目を「困ぱい」しながら探すのである。「疲労困ぱい」の身には厄介な作業だ。そんな孤独な原稿書きの仕事に、秋の日暮れは格別にうそ寒い……。ちなみに、季語「秋の暮」は秋の日暮れの意味であり「晩秋」のことではないので要注意(と、どんな歳時記を引いても書いてある)。ところで、この句は「紙」に文字を直接書きつける人の感慨だ。と、この句をワープロで写していた先ほど、いまさらのように気がついた。ワープロだと「こんぱい」と打てば「困ぱい」ではなく、すぐにぴしゃりと「困憊」が出てきてしまう。その「困憊」の「憊」をいちいち「ぱい」に直さなければならぬ「わずらわしさよ秋の暮」というのが、今の私のいささかフクザツな心持ちである。この句は、既に井川博年が昨年の11月に取り上げていた。さっき検索装置で調べてみて、やっと思いだしたというお粗末。ま、いいか。最近は「困ぱい」することが多いなア。『変哲』(1992)所収。(清水哲男)


October 10101998

 ナイターも終り無聊の夜となりぬ

                           岸風三楼

っしゃる通り。野球のナイター(この和製英語は死語になりつつあるが)がなくなると、なんだか夜の浅い時間が頼りなくなる。いつものようにテレビをつけようとして、「ああ、もう野球は終わったのだ」と思うと、ではその時間に何をしたらよいのかが、わからなくなる。いわゆる「無聊(ぶりょう)をかこつ」ことになってしまうのだ。「ナイター」の句もいろいろと詠まれているが、終わってからのことを題材にした句は珍しい。岸風三楼は富安風生門だったから、そのあたりの世俗的な機微には通じていた人で、そういう人でないと、なかなかこういう句は浮かんでこないだろう。いや、浮かんだにしても、発表できたかどうか……。ただし、この句をもって岸風三楼の作風を代表させるわけにはいかない。かつての京大俳句事件でひっかかった俳人でもあるし、もとより剛直な作品も多産してきた人だ。でも、こういう句を、いわばスポンテイニアスに詠める才質そのものを、私は好きだ。世間的な代表作ではないが、作家個人の資質は十分に代表しているのではないだろうか。『往来以後』(1982)所収。(清水哲男)


October 09101998

 勉強の音がするなり虫の中

                           飴山 實

の手柄は、なんといっても「勉強の音」と言ったところだ。いったい「勉強」に「音」などがあるだろうかと、疑問に思う読者のほうが多いかと思うが、ちゃんと「勉強」にも「音」はある。本のページをめくる音、ノートに何か書きつける音、茶を飲む音や独り言など、四囲から虫の音が聞こえてくるほどの静かな秋の夜であるから、かすかな室内の音までもがよく聞こえるのである。作者は眠りにつこうとしているのであり、隣の部屋では誰かがまだ勉強しているという図であろう。深夜、本をめくる音が気になると、私はそれぞれ別々のシチュエーションで、二度注意されたことがある。自宅では母に、下宿では同級生に……。いずれも襖一枚をへだてていたのだが、眠ろうとする人にとっては、相当にうるさく聞こえるらしいのだ。放送業界では「ペーパー・ノイズ」といって、台本などの紙をめくる音は大いに騒々しいので、素人の出演者にまで注意したりする。マイクがよく拾う音は、人間の耳にもうるさいということだろうか。句の作者は、しかし、うるさいと思っているわけではあるまい。「勉強」している人に、そしてその「音」に、好ましさを感じながら眠りにつこうとしているのだと思う。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます