岸風三楼の句

October 10101998

 ナイターも終り無聊の夜となりぬ

                           岸風三楼

っしゃる通り。野球のナイター(この和製英語は死語になりつつあるが)がなくなると、なんだか夜の浅い時間が頼りなくなる。いつものようにテレビをつけようとして、「ああ、もう野球は終わったのだ」と思うと、ではその時間に何をしたらよいのかが、わからなくなる。いわゆる「無聊(ぶりょう)をかこつ」ことになってしまうのだ。「ナイター」の句もいろいろと詠まれているが、終わってからのことを題材にした句は珍しい。岸風三楼は富安風生門だったから、そのあたりの世俗的な機微には通じていた人で、そういう人でないと、なかなかこういう句は浮かんでこないだろう。いや、浮かんだにしても、発表できたかどうか……。ただし、この句をもって岸風三楼の作風を代表させるわけにはいかない。かつての京大俳句事件でひっかかった俳人でもあるし、もとより剛直な作品も多産してきた人だ。でも、こういう句を、いわばスポンテイニアスに詠める才質そのものを、私は好きだ。世間的な代表作ではないが、作家個人の資質は十分に代表しているのではないだろうか。『往来以後』(1982)所収。(清水哲男)


August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1052012

 泰山木けふの高さの一花あぐ

                           岸風三楼

きな樹木に咲く花は下から見上げても茂る葉に隠れてなかなか気づかないものだ。俳句をやり始めたおかげでこの花の名前と美しさを知ったわけだけど、今ではこの時期になると職場近くにある泰山木の花が開いたかどうか昼休みに確かめにゆくのが習慣になった。木陰にあるベンチに弁当を広げながら、ああ、あの枝の花が開きかけ、2,3日前に盛りだったあの花はまだ元気、枝の高さを追いながらひとつひとつの花を確かめるのも嬉しい。青空の隙間に見えるこの花の白さは美しく、名前の響もいい。原産地は北米で、渡来は明治以後とのこと。「一花あぐ」という表現が下から見上げる人間の思惑など気に掛けず天上の神々へ向けて開いているようで、超然としたこの花の雰囲気を言い当てているように思う。『岸風三樓集』(1979)所収。(三宅やよい)




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