国際文通週間。未だにマジでやっている。花鳥記念切手は見事。コレ売るためかな。




1998ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07101998

 涸れ川を鹿が横ぎる書架の裏

                           中島斌雄

島斌雄。懐しい名前だ。二十歳にして「鶏頭陣」(小野蕪子主宰)の習作欄の選者となり、「沈みつつ野菊流るるひかりかな」(1931)のようなリリカルな句を数多く書き、戦後にはその清新な句風を慕って集まった寺山修司など多くの若い表現者に影響を与えた。今年は没後十年。懐しいと言ったのは、最近の俳句ジャーナリズムではほとんど目にしなくなった名前だからだ。なぜ、彼の名前が俳壇から消えたのか。それはおそらく、後年のこうした句風に関係があると思われる。端的に言えば、後年の斌雄の句は読者によくわからなくなってしまったのだ。この句について、理論家でもあった斌雄は、次のように解説している。「鹿のすがたが、書架をへだてて眺められるところが奇妙であろう。そんな風景は、この世に存在するはずはない……というのは、古い自然秩序を墨守する連中の断定にすぎまい。そこにこそ、新しい自然秩序、現実秩序があろうというものである。『書架』はあながち、文字どおりの書架である必要はないのだ。……」。ここだな、と思う。今の俳句でも、ここは大きな問題なのだ。自由詩では当たり前の世界が、俳句では大きな壁となる。その意味で、今なお中島斌雄は考えるに価する重要な俳人だと思う。『わが噴煙』(1973)所収。(清水哲男)


October 06101998

 はればれとたとへば野菊濃き如く

                           富安風生

ればれとした気持ちとは、どういうものか。作者は「たとへば」と例をあげている。わずか十五文字のなかに「たとへば」と四文字を使うのは、なかなかの冒険だ。下手をすると、そこで句の流れが止ってしまうからである。しかし、この句にはよどみがない。すらりと読める。句が詠まれた状況について、書き残された文章があるので引用しておこう。「……多摩川の稲田登戸……道の埃を被らない野菊の花は、晴れた空と同じやうに鮮かな色をして……山萩の蔭を、少女らの唱ふ透き通る声が下りて来た。少女らはわれわれと松の下の径を譲り合ふ時だけ唱ひやめたが、通り過ぎるとまた朗らかに唱ひはじめた。……ネクタイを胸のあたりにひるがへしながら……」。このとき(1937)、風生53歳。27年間に及んだ役人生活にピリオドを打った年である。青年のように純朴な感受性がまぶしい。『松籟』(1940)所収。(清水哲男)


October 05101998

 玉霰夜鷹は月に帰るめり

                           小林一茶

は天心にある。さながら玉霰(たまあられ)のように降り注ぐ月光。夜鷹は淋しくも孤独に空をのぼって、あの美しい月に帰っていくのだろうな……。と、実はここまでは隠し味である。「夜鷹」といえば、江戸期にはこの夜行性の鳥の連想から下等な娼婦を指した。芝の愛宕下や両国橋などに、毎夜ゴザ一枚を持って商売に出たという。一茶には、そうした女と接触を持った体験もある。そんな女たちが、月の光りを霰と浴びて、今夜は月に帰っていくのだ。娼婦を天使に見立てる発想は西洋にもあるが、一茶の発想もかぐや姫などの「天女」に近いイメージになぞらえているわけで、興味深い。もとより作者に軽蔑の思いは微塵もなく、淪落した女の運命に満腔の同情と涙を寄せている。このあたりの世俗へのまなざしを見ると、芭蕉などとはまったく志を異にした詩人であったことがよくわかる。一茶句のなかでは、あまり知られていない句だと思うが、名月の季節に読むととりわけて心にしみる。月の光りが鮮やかなだけに、当時の闇の深さも読者の身に迫ってくる。『七番日記』に出てくる句だ。(清水哲男)




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