「赤い羽根」は中国からの輸入品。日本の鶏の羽根は機械で毟られるので使えない。




1998ソスN10ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 02101998

 銀色の釘はさみ抜く林檎箱

                           波多野爽波

前の句。北国から、大きな箱で林檎が送られてきた。縄をほどいた後、一本ずつていねいに釘を抜いていく。「はさみ抜く」は、金槌の片側についているヤットコを使って浮いた釘をはさみ、梃子(てこ)の原理で抜くのである。真新しい釘は、いずれも銀色だ。スパッと抜く度に、目に心地好い。クッション用に詰められた籾殻(もみがら)の間からは、つややかな林檎の肌が見えてくる。何であれ、贈り物のパッケージを開けるのは楽しいことだが、林檎箱のように時間がかかる物は格別である。その楽しさを釘の色に託したところが、新鮮で面白い。往時の家庭では釘は必需品であり、林檎箱から抜いた釘も捨てたりせず、元通りのまっすぐな形に直してから釘箱に保管した。同じ釘は何度も使用されたから、普通の家庭では新品の銀色の釘を使うことなどめったになく、したがって句の林檎箱の新しい釘には、それだけでよい気分がわいてくるというわけだ。そして、もちろん箱も残されて、物入れに使ったりした。高校時代まで、私の机と本箱は林檎箱か蜜柑箱だった。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 01101998

 十月のてのひらうすく水掬ふ

                           岸田稚魚

の冷え込みを、多くの人はどんな場面で実感するのだろうか。それは人さまざま、場面さまざまであろうけれども、この句のようなシーン、たとえば朝の洗顔時に感じる人が圧倒的に多いのではなかろうか。夏の間は無造作にジャブジャブと掬(すく)っていた水なのだが、秋が深まるにつれて、「てのひらうすく」掬うようになるのである。水に手を入れるのに、ほんのちょっとした「勇気」が必要になってくる。新暦の十月という月は、四季的に言うとそんなにきっぱりと寒くもなくて、まだ中途半端な感じではあるのだが、少しずつ来たるべき冬の気配も感じられるようになるわけでもあり、そこらあたりの微妙な雰囲気をまことに巧みにとらえた佳句だと思う。いろいろな句集や歳時記を開いてみたのだが、季語「十月」で万人を納得させるような作品は、予想どおりに少なかった。今回私の調べた範囲で、この句に対抗できる必然性を持つ句は、坂本蒼郷の「僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る」という気持ちよく、少し苦い心で労働する人の句くらいであった。「十月」をちゃんと詠むのは、相手がちゃんとしていないだけに相当に難しい。(清水哲男)


September 3091998

 あくせくと起さば殻や栗のいが

                           小林一茶

拾い。落ちている毬(いが)をひっくり返してみたら、中が殻(からっぽ)だったという滑稽句。そんなに滑稽じゃないと思う読者もいるかもしれないが、毎秋の栗拾いが生活習慣に根付いていたころには、めったに作者のように実の入った毬を外す者はいなかったはずだ。あくせくと、心が急いでいるからこうなるわけで、一茶はそのことを自覚して自嘲気味に笑っているのである。自分の失敗を笑ってくださいと、読者に差し出している。当時の読者なら、みんな笑えただろう。昔から、だいたいこういうことは子供のほうが上手いことになっていて、私の農村時代もそうだった。子供は、この場合の一茶のように、あくせくしないで集中するからだ。「急がば回れ」の例えは知らないにしても、じっくりと舌舐りをするようにして獲物に対していく。我等洟垂れ小僧は、まず、からっぽの毬をひっくり返すような愚かなことはしなかった。いい加減にやっていては収穫量の少ないことが、長年とも形容できるほどの短期間での豊富な体験からわかっていたからだ。むろん一茶はそんなことは百も承知の男だったが、でも、失敗しちゃったのである。栗で、もう一句。「今の世や山の栗にも夜番小屋」と、「今の世」とはいつの世にもせちがらいものではある。(清水哲男)




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